曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2014年11月15日(土)
  父から幼き子への禅問答
  
和尚さんのさわやか説法257
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 今回の「さわやか説法」は、7月号の続きである。
 8月号は「森のおとぎ会」で語った「花子とアン版の昔話」をし、9月10月号は、休載してしまったからである。お許し下さいませ―。
―てなことで―
 7月号で、私は常現寺の先代住職であり、私達高山三兄弟の父でもある「高山不言」和尚が、幼き子供達に問いを投げかけた。その状景を描写した。
 私には「その時」のことが、60を越した現在にあっても鮮烈に脳裡に刻み込まれている。
 このことを、2番目の弟である「高山裕章」に、7月号を書くにあたり聞いてみると、
―なんと―
「覚えている」とのことであった。弟は当時小学3年生である。
「あの時、おとちゃんは、オラ達三人の子どもに『ここに掛かっている三本の軸で、どれを選ぶか?』って聞いたもんなぁ〜」と、なつかしそうに目を細めて笑った。
 やはり父は我が子らに強烈に残るべく、禅たる「何か」を教えていた。
 あの「お前達なら、どの軸を選ぶのか?」との問い掛けは、まさに「禅問答」だったのだ。
 三本の軸の作者は、右側が「西有穆山(にしありぼくざん)」。真ん中は「横山雪堂(よこやませつどう)」。そして左側は「関野香雲(せきのこううん)」の書であった。
 穆山の軸は「宝珠画讃」。雪堂は「白雲去来」。香雲は「十句観音経」の篆書体(てんしょたい)である。
 小学生が読める代物ではないし、ましてやその意味内容なんぞ分かるわけがない。
 そんなことは、不言和尚には先刻、御承知。ただ、我が子らが、どのような反応を示すかを問うたのだ。

 「禅問答」とは、師家(しけ)が修行者の心境を点検しようとして、ことさらに問いを発し答えさせようとすること。また逆に修行者が師家に対して、疑問を呈し、これに応答することをいうのである。
 この禅問答の肝要たるものは、即問即答(そくもんそくとう)ということだ。
 つまり、即座に自己の心境を答えなければならない。禅の世界はいかなる事象も全てが禅であり、禅ならざるものはない。
 故に、どのような答えであり、どのように答えてもよいのだ。
 その答えの中に、その修行者の心境が現われる。
 だから、それを師家は点検するのだ。
 即問即答なるが故に大事なことは、間髪を入れず答えることにある。つまり、迷ったり、「え〜っと」なんて考え込んではしてはならないのである。例え間違ってもいい。答えにならない答えであったとしてもいいのだ。
 それは間髪を入れずに答えることであるからにして自己の心底の吐露であるからだ。
 それを聞いて師家は「そうか」としか頷かない。
 むしろ、逡巡(しゅんじゅん)し、ためらったり、あれこれ解答を考えたりしていると、「何をぐずぐずしておる!!」と喝を入れられる。

―ひるがえって―
 今から50数年前、私が小学6年生、2番目の弟が3年生、末っ子が1年生の時の、あの状景は、まさしく父から子への「禅問答」だったと思い返さざるを得ない。
 奥座敷の床の間に掛かりし三本の掛け軸を目の前にして「お前ならどれを選ぶ」の突如なる父の問いに、即座に呼応したのは、2番目の弟であり、次に私が、そして末っ子は残った軸を指さして「オラはこれでもいいじゃ」と答えた。
 もし、3番目の弟が兄達の選んだ軸を指差ししたとしても、「そうかナオコもそれを選んだのか」と満足しただろうし、また、3人が3人とも同じ軸を選んでも、「そうかそうか」「3人ともそれがいいのか」と盃をあおったに違いない。
 これが逆に1人であれ、3人であれ、「どれにしようかなぁ?〜」なんて、ぐずぐずしていたり、「オラ、漢字なんて読めねぇ〜じゃ」なんて、その場を立ち去ったりしたもんならば、どのようになっていたのだろうか。
 多分、ガクッとうなだれて、持っていた酒をガブ飲みしていたに違いない。
 父親和尚は、私達三兄弟の「決心」たる子どもながらの「心境」を見定めたかったのであろう。
 間髪を入れず、どの書を選ぶかという、その「心」である。
 選んだものを自分で決めるという「心」なのだ。
 どの子が、どの軸を選んでも、全ては「正解」であったのだ。
 父親和尚は、あの時、盃に入った酒をコクッと飲み干し、満足そうに「そうか、三人とも、三つの軸を選んだか」との笑みを含んだ言葉が今も心の奥に残っている。
―てなことで―
 2番目の弟が選んだ軸の話は、7月号で述べたことから、今月号では3番目の弟が選んだ軸の話をする。
 末っ子が「オラ、これでもいいじゃ」としたのは、「延命十句観音経」であった。
 当然の如く、この軸は小学1年生が読めるはずはないし、ましてや意味なぞ分かりようもなく漢字が羅列しているばかりで、まさに珍文漢文(ちんぶんかんぶん)(正しくは珍紛漢紛と表記)である。
 今さらながら、よく末の弟が、この書を選んだものだ、と私は感心するばかりである。
―故に、―
 この十句観音経の意味するところを知ると末っ子の直己の人生や生き方からすれば、まさに選ぶべくして、選んだものだと納得せざるを得ない。
 私達三兄弟の高山家は、父は常現寺の住職であり、母は高山歯科医院の女医として、小中野は北横町の「滝の湯」の2階に開業していた。
 ということで、兄は父の跡を、二番目は母の跡を継ぐというようなこともあり、3番目は「オラ、これでもいいじゃ」の如くで、兄達とは異なる進路を自らが選択し、心を決めていた。
 結果。東京農業大学の拓殖学科に進み、自己の人生を開拓した。
 そして大学卒業後はブラジル国に移民し、幾多の艱難辛苦を乗り越えて、現在はサンパウロ市で「JAPAN DESK(ジャパン デスク)」という、日本とブラジルの文化・経済交流を計るべく経済情報会社の社主として活躍をしている。
 その弟たる直己(当時22才)がブラジル国に旅立ったのは、昭和52年であり、その時、私は大本山總持寺の修行一年目であった。修行中は門外不出である。
 私は、「もしかすれば今生の別れかもしれない」という思いにかられ御本山に三拝九拝の懇願に懇願を重ねて、成田空港に向かった。
 その後、大本山の修行を終えて、常現寺に帰り、高校時代まで使っていた自分の部屋に入るや否や、驚愕し絶句してしまった。
 私の部屋は、もちろんのこと弟達が使っていて当然のことだがその子供部屋の壁には、ポルトガル語で大きく落書きされてあり、その下に日本語で、こう記されていた。
「成功するまでは二度とこの地にもどらず」と……。
―まさに―
 弟は、自分の名前の如く、真っぐに、が人生を選択し、決心していたのであった。
 幼き頃、「オラ、これでも いいじゃー」と言った言葉ではない。「オラ、これで いいじゃー」と……。
 まさしく、あの落書きは、父の教えの如く間髪を入れずに答えた「禅問答」だった。
 
 あの時、弟が選ぶべくして選んだ「十句観音経」の意味するところは、次号にて解説してみたい。
  合掌  
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