曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2014年12月20日(土)
  「延命十句観音経」
  
和尚さんのさわやか説法258
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 先月号で、常現寺第六世、高山不言和尚が父として、幼き我が子3人に「お前らならどの書を選ぶか?」との『禅問答』の話を展開した。
 その中で、3番目の末っ子が上の兄2人が選んだ残りの軸を指差して「オラ、これでもいいじゃあ!!」としたのは、関野(せきの)香雲(こううん)筆の「延命十句観音経」であると述べた。
 今月号は、その軸の解説と、なぜ選ぶべくして選んだのか。それを確かめた父の心境とは如何なるものであったのか。
 それを、今は亡き父に代わって推論してみたい。

 まず、「延命十句観音経」とは、どのような御経なのか?
 それは、題名の如くわずか十句で構成された御経で四十二文字だけのものであり、仏教中、最も短い御経でもあるという。
 この十句観音経の成り立ちについては、古代中国にて五世紀半ば頃と伝えられているが、日本において、ことに民衆に流布されたのは江戸時代、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鴨禅師(1685生)が『延命十句観音経霊験記』(1759著)において、この経は観音菩薩から直々に授けられた霊験あらかたな経であり、そこには多くの人々が、この経を誦することによって摩訶不思議な功徳により、救われたという事例がたくさん紹介されているのであった。
 特に、その時代、病に苦しむ人々が多く、治る見込みがないと見離された重病の患者が、この経典を千回唱えたら奇跡的に回復したということから『延命十句観音経』とも称せられるようになったのだという。
 その経文とは…。
   観世音
   南無仏
   与仏有因
   与仏有縁
   仏法僧縁
   常楽我浄
   朝念観世音
   暮念観世音
   念念従心起
   念念不離心

の、たったこれだけなのである。
 まず、この読み方である。皆さんも声に出して唱えてみませんか。
   カンゼーオン
   ナームブツ
   ヨーブツ ウーイン
   ヨーブツ ウーエン
   ブッポウソウエン
   ジョウラク ガージョウ
   チョウネンカンゼーオン
   ボーネンカンゼーオン
   ネンネン ジュウシンキ
   ネンネン フーリーシン

どうですか、皆さん
ちゃんと読めましたか?
 では、次に読み下しをしてから、更に意訳をしてみたい。
 「観世音。南無仏。仏と因あり。仏と縁あり。仏法僧の縁あり。常楽我浄なり。朝に観世音を念じ、暮れにも観世音を念ず。念々に心を起こし、念々に心を離れず。」
 そしてこの経を意訳するならば、
「観世音菩薩さま。私は観音様に帰依します。私は観音様と同じ因があり、縁があります。そして仏法僧の三宝の縁によって、常楽我浄なる涅槃四徳の世界に安住できます。だから、朝な夕なに観音様を思い、念じ念じて自分の心を起こし、念じ念じて観音様の心と離れません」となる。
 故に、白隠禅師は、この御経を何度も唱えよ、と言われる。
―そう―
 千回唱えよ。と…。
さすれば、あなたの悩みも苦しみも救われるというのだ。
 つまり、経を何度も唱えるというのは、その経と自分とが一体となり、唱えることにより、観音様の心と自己の心が一体となることから、観音様の功徳によって、自己の心が清浄となる。
 それが「常楽我浄」なる世界に安住するということなのだ。
 この常楽我浄の「常」とは常住不変なる「常徳(じょうとく)」のことであり、「楽」とは、苦を離れた寂静(じゃくじょう)無為(むい)の大安楽なる「楽徳(らくとく)」のことである。
 更に「我」とは、我見我執を離れた自由無礙(じゆうむげ)なる真実の自己としての「我徳(がとく)」であり、「浄」とは、清浄(しょうじょう)無垢(むく)なる本来の自己としての「浄徳(じょうとく)」のことであった。
 この「常楽我浄」が十句観音経の要旨たる文言であり、観音様と自分が共に、この世界に安住することにほかならないからである。

 この「十句観音経」の意味するところを読み取れば取る程、私は末っ子の直己が青雲の志を抱いて遠きブラジル国へ移住したことが「なるほど!!」と得心せざるを得ない。
 まさしく、弟は「常楽我浄」なる安住の地を求めて勇躍したのだ。
―故に―
 幼かった小学1年生の時に「オラ、これでもいいじゃぁー」と指差した『十句観音経』の軸は、将来の道を暗示していたかもしれない。
 それを父親たる不言和尚は、盃をグイッと空けながら見てとっていたのであろう。まっこと、恐ろしい父であり、和尚であった。

 −ひるがえって―
 私は父に代わり異郷で懸命に頑張って、日本とブラジル国の「かけ橋」になろうとしている弟の直己に、この「十句観音経」を異訳してみたくなった。
 意訳ではなく「異訳」である。
 それは、「観世音」を「父母」に置き換えてのことだ。
「父母(ふぼ)菩薩(ぼーさつ)。南無(ナーム)父母様(ふぼさま)。与父母有因(よーふぼうーいん) 与父母有縁(よーふぼうーえん)。仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)。常楽我浄(じょうらくがーじょう)。朝念父母様(ちょうねんふぼさま)。暮念父母様(ぼーねんふぼさま)。念々従心起(ねんねんじゅうしんき) 念々不離心(ねんねんふーりーしん)。」と。
 つまり、「異訳十句観音経」の意訳は、「父母様。親愛なる父母様。私は父母様と因があり、その縁から現在があります。そして父母様の教えの縁によって常楽我浄の安住の地にいます。
 だから朝な夕なに父母様を想い、念々に私の心を起こし、念々にいつも父母様の心と離れず、忘れることはありません」と…。
まさに、遠き地にあっても、父母(ちちはは)は我が子のそばにいるのだ。
 まさに幼き子の選んだ軸は、選ばれるべくして選んだのであった。

―またまたひるがえって―
 この異訳は、読者の皆様にも通じるものであろう。
 皆様の愛する父上様母上様に置き換えてもいいし、もし御主人を亡くされた方は、御主人の名前を、あるいは奥様を亡くされた方は奥様の名に…。
 そうすれば、この「十句観音経」をお唱えするにしても、ずうっと身近かになるし、心を込めての御経となる。

 どうぞ、皆様も「十句観音経」を唱えてみませんか?
 きっと、清々しい気持になるはずです。
 千回お唱えしなくてもいいです。十回でも、二十回でも、回数にこだわりません。
 まず、お唱えしてみることが大事なのです。
 さあ!!大きな声を出してお唱えしてみて下さい。
 どうぞ、よき年末をそして、よきお年をお迎え下さい。
  合掌  
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