「故郷(ふるさと)」のふるさとを訪ねて

和尚さんのさわやか説法 平成15年9月号 曹洞宗布教師 *****
 
常現寺住職 高山元延

 去る9月初旬より11日までの間、長野県は北信濃地方に「説法の旅」に出掛けた。
 この旅は、単なる物見遊山的
(ものみゆさんてき)なものではなく、曹洞宗の管長禅師様の代理として全国の寺院檀信徒を対象に「特派布教」として、辞令された任務地におもむき、毎日、一会場一寺院を訪れて説法をするのであった。たまには一日二会場の時もある。
—と、いうことで—
 どんな風光明媚
(ふうこうめいび)な所へ行っても観光的な気分にはなれず、判を押したような毎日である。
 私の日課は、朝4時起床、洗面と剃髪(頭を剃ること)それから今日の説法の為の勉強と点検。7時朝食。そして身支度を整え、8時〜8時半頃お迎え、9時開講式、その後午前中「説法」となる。12時、昼食。1時半から2時頃に次の日の会場の方の迎えと、その移動。これが1時間〜2時間、3〜4時頃宿に到着、5時次会場責任者との打ち合せ。6時夕食(御接待のある時もある)、8時お風呂頂戴。9時までには床に就いて、奥様の夢を見る(見ない方が多い)。
 と、いうようなことで、あとは「なぁーんにも」無いのである。八戸に帰ってきて、記憶に残っているのは、そのお寺の住職さんたちの顔と本堂の状景ぐらいしかなく、まっことさみしいものだ。

 長野は、八戸とは逆のまさに「山と川」の国である。
 あの有名な「千曲川
(ちくまがわ)」の上流、下流を何度、横切っただろうか、その度ごとにその川や回りの山々の風景が変わっていく。
 とある日、野尻湖畔近くの三水村というところの寺院にて布教をし、次なる会場は長野市内ということで、迎えのタクシーの車中の人となった。
 運転手さんは、優しい人なのか、観光大使に任命されているのか私が「青森から来た」と言うと、長野の山々のこと、あたりの風景のことを、疲れはてて眼がショボショボとしている私に、さかんに説明をしてくれる。

—そして—
 豊田村というところに入ると、「ここは、高野辰之
(たかのたつゆき)博士の生まれた所ですよ」と自慢気に語る。
 「ここから少し入ると、博士の生家があります。」「立ち寄ってみますか?」
 私は、高野博士がどんな方であろうが、豊田村がどんな所であろうが、その時は丸っきり興味もなく、早く宿へ入り、午睡をしたく適当に「はいはい、どうぞ」なんて、空返事
(からへんじ)をして、うなずいていた。
 読者の皆様には、「高野辰之」と聞いて、「あっ!!あの人だ」と思った方は、かなりの音楽通であるとお見受けする。
 私は、その生家の前に立つ看板を見るまで気がつかなかった。
「さぁ!!着きましたよ」という声に促されて、その看板を見た時、眠気はぶっ飛び、声を上げた。
 「えぇー!!ここが、あの「故郷」を作った方の家ですかぁー」
 その驚きの声を聞くと運転手さんは、大いに満足気に 「へへ、そうですよ」と笑った。

  ♪ 兎 追いし かの山 小鮒釣りし かの川 
    夢は 今も めぐりて 忘れがたき 故郷
(ふるさと) 

 この歌を知らない人はいないであろう。誰もが幼い頃から一度は口ずさんだことがあるだろう。
 この歌を聴くと、この歌をうたうと、私達は故郷を思い出し、それぞれの故郷の状景が彷彿としてくるのではなかろうか。日本の歌、「ふるさとの歌」を代表する歌であった。
 作詞者の高野辰之(1876〜1947)は、この村に誕生し、1910年、現在の東京芸大の教授となり、邦楽、歌謡、演劇の芸態とその史的研究の先駆者として「日本歌謡史」により文学博士の学位を受けた方であるという。
 特に小学唱歌の作詞家として著名であり、彼が幼少期を過ごした信州(長野)の自然を織り込んで作った「故郷
(ふるさと)」「朧月夜(おぼろづきよ)」「春の小川」「春が来た」等があり、いずれも今でも皆なに親しまれている「ふるさとの歌」であった。

 私は、車から降り、彼の生家を、そして回りの風景に目をやった。なるほど確かに、緑に恵まれた山が後ろにひかえ、そして前には、のどかな田園風景が広がっていた。
—そして—
 その日は、人っ子一人としていない閑静なる残暑のたたずまいではあったが、私には、その当時の日焼けした子供たちが歓声を上げ、兎を追い小鮒を釣っている状景が目に浮かんできた。

 そのような光景は、高野博士ばかりではなく、私達中年世代にも幼き頃、確かにそれはあった。
 兎のかわりに、蛙やトンボを追い、常現寺の裏手の類家田んぼには水車小屋があり、そこの小川で鮒ではなくドジョウやタニシをとったものである。
—それは—  今はない。
田んぼは埋めたてられ住宅が建ち、新しい街が形成され、そのような光景は、遠い遠い過去のものとなり思い出としか残っていない。
 それは、時代の流れとしては、至極当然のことではあろう。時代は過去を土台として新しい時代を構築していく。

 現代の子ども達は、その構築された「時
(とき)」と生まれ育ったその「地(ち)」を「故郷」として認識していくにちがいない。
 「昔はよかった」などとヤボなことは言うつもりはない。現代は現代で昔から変わらず、八戸の故郷は、信州のような山々ではなく、大いなる「海」があり、川があり、遠くには階上岳が見える。そして、そこに暮らす人々がおり、父母がおり、友人達がいるのである。

  ♪ いかにおわす 父母
(ちちはは) 
    恙
(つつが)なしや ともがき
    雨に 風に つけても 思いいずるふるさと ♪

 きっと「故郷」は、それぞれの時代にあって、生まれ育った「時と空間」を共有して、それぞれの「心」の中に、しっかりと刻みこまれるものではないだろうか。
—そして—  —それが—
 年月を隔て、生まれ育った土地を離れようが、いつまでも「想う」心が、私達にとって、「私の故郷」なのである。
 では、私、高山元延和尚にとっての「故郷」は、と問われるならば、私は、この常現寺という「寺」であり、「小中野」という土地なのである、と答える。
 最後に、読者の皆様にとって、あなたの「故郷」は、どこでしょうか?

合掌

 

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