手紙文法話の試み
「明日は晴れる」

和尚さんのさわやか説法172 平成17年7月号 曹洞宗布教師
常現寺住職 高山元延

 近年、葬儀の形態が変わってきた。それは地方への都市化型葬祭の影響なのか。はたまた市民からのニーズなのか。
 お寺を式場にして葬儀をすることが、めっきり減少し、替
(かわ)って「葬儀会館」での葬式が増加し、今や私の寺においては、80%が会館葬というまでになってきた。
 それまでに需要があるということは、個々の住宅事情や移動的な問題、あるいは単なる手軽さという問題ばかりではなさそうだ。

 実は、葬儀業者のきめ細かなサービスというか、葬祭に対する「対応の仕方」の向上、あるいは、その「質」が遺族への要望に応えるものになってきたからだ。
 その「対応や質」の根底をなすものは何か

—それは—
 亡き人に対する「安らぎ」と遺族に対する「癒
(いや)し」にあると私は思うのである。
 まさに葬儀のキーワードは「安らぎと癒し」なのだ。
 このことを仏教的にもう少し深く考察するならば、「菩提心
(ぼだいしん)の行願(ぎょうがん)」ということに帰結する。この菩提心をわかりやすく言うなら、「人々の為につくそうとする自らの心のはたらき」を示し、その心の内容を「四無量(しむりょう)」というのである。
 この四無量とは、慈
(じ)、悲(ひ)、喜(き)、捨(しゃ)の四種の無量なる、大きな心を言い、慈無量(じむりょう)とは人々を慈しみ安らぎを与える思いやりの心であり、非無量(ひむりょう)とは、人々の悲しみ苦しみを、自分の悲しみとして相手の心と同じくする心を言う。
 また喜無量
(きむりょう)とは、相手の喜びを共に分かち合う心であり、捨無量(しゃむりょう)とは自分の憎しみ、怨(うら)みを捨て他の人と同じ心になることをいうのであった。
 以上のように四無量心とは、人間として本来もっている暖かい心であり、相手を思いやる限りない心であるからにして、この「心」はサービス業に従事する者、あるいは人を相手にする職業全てに通じるものであって、特に葬祭にたずさわる職務の者には、最も求められる心構えであることは確かだ。
 しかしこの「安らぎと癒し」というキーワードは、葬祭業者だけの心構えではないのだ。
—実は—
 私達、僧侶や宗教者自身が本来持ち合せているものであり、あるべき姿であるし、その心を以てして常に檀家の皆様にはもとより、亡き人へ、あるいは御遺族に対して、その「安らぎと癒し」を与えていかなければならないのだ。
—そこで—
 私達僧侶側としても多様化する葬儀の形態に対応する為にも、時代に即応した布教展開をしていくべく方向性が求められていることも事実である。
 ということで、今回の「さわやか説法」は「安らぎと癒し」をテーマとして、私が住職に就任したてのころ、経験したある檀家さんとの出会いの物語を通して、私自身の「試み」の法話を述べさせていただきたい。
 その御家庭は、前年にお祖父
(じい)さんが亡くなられ、それから間もなくして御主人が悪性の病気で東京の病院へ入院。奥様はその看護の為に上京し、家にはお祖母(ばあ)ちゃんと小学一年生の男の子と保育園に入ったばかりの女の子を残してのことであったのだ。
 奥様は御主人の看護に心を尽くしたが、そこで彼女自身も病気となり、病院は御主人と一緒ながらも病棟は別々という境遇に落ち入ったという。幸いにも奥様の病気は快方に向かったが、御主人は三十九才という若さで他界された。
 この奥様の悲しみや苦しみに対して、私はどのように安らぎと癒しを与えればいいのか。
 その時の実話を「手紙文形式」という形で語ってみたい。

 お元気ですか。あなたが最愛の御主人様を亡くされてから、何年たったのでしょうか。 私は、あの時のことを今でも思い出します。それは、ご主人様の訃報を受け、あなたのお家へお伺いした時のことです。お経を読み終えた後、あなたはご主人様の病気との闘いのこと、また家族や子供たちへの思いを切々と悲しみをこらえながらお話し下さいました。
 そして最後に私に、こうつぶやいたのです。
「和尚さん、どうして人は死ぬんですか」って。私は、その問に対して即座に答えることはできませんでした。いろいろな言葉が喉元まで出てはくるんですが、それが声になって出てこないんです。
 じっと無言のまま時間が経過するばかりでした。その時、突然、思いもかけない言葉が出たんですね。私自身もビックリしました。
「奥さん 明日は晴れますよ。きっと晴れますよ」って。そしたら、あなたの眼から涙があふれはじめたんですよね。きっと今まで涙をこらえていたんでしょうね。
 あの時、あの場で、あなたの率直な質問の答えにはなってはいませんが、あなたの悲しみや苦しみの何かに応えられるものだったのでしょうか。
 私は、今でも、そのことを考え続けています。

「世は無常なり、会うものは必ず離るる事あり。憂悩
(うのう)を抱(いだ)くこと勿(なか)れ。世相是(せそうか)くの如(ごと)し」
 この言葉は、お釈迦様が亡くなられる前にたくさんのお弟子達に、最後の教えとして説かれた「仏遺教経
(ぶつゆいきょうぎょう)」の一節です。
 意味するところは、この世は常ではありませんから、必ず人は亡くなるし、必ず別れる時がある。だからこそ憂
(うれ)い悩(なや)むのではなく、自分の人生を一生懸命生きていくんだよ。との励ましの言葉ともいえるものであります。
 愛
(いと)しい人を亡くした時、私達は悲嘆(ひたん)にくれます。でも常ではないからこそ、悲しみや苦しみからも立ち上がれるのかもしれませんね。
 私は、あの時の「明日は晴れる」と、あなたに言った言葉から、こんな詩を作ってみました。どうか読んでくれませんか。



 題「明日は晴れる」

  愛
(いと)しい人を
  亡
(な)くした時
  私たちの心は
  悲嘆
(かなしみ)の風に吹かれ
  慟哭
(なみだ)の雨に濡(ぬ)
  追憶
(おもいで)の空を見上げる
  そう
  いつかは晴れる
  希望
(のぞみ)のこの地に立ち
  あなたと共に
  明日は晴れる
  きっと晴れる

 どうぞ、亡くなられたご主人様にも読んで聞かせてくれませんでしょうか。 合掌

 このように「癒しの法話」を手紙文で書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。

 でも本来の「安らぎと癒し」は法話もさることながら、僧侶そのもの、宗教者そのものの「存在」なのだ。
 


合掌

    
     


 

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