くもの糸 パートⅤ
「—悪たれ川流之介的 カンダタの心とは—」

和尚さんのさわやか説法173 平成17年8月号 曹洞宗布教師
常現寺住職 高山元延

 私は昨年来、かの有名な芥川龍之介の名前をもじり、「悪たれ川流之介」となって、これまた有名な彼の代表作でもある「くもの糸」を勝手にいじくりまわし、歪曲(わいきょく)、猥雑(わいざつ)ワイルドに脚色した上で、各地の講演会や説法の場で語ってきた。
 不思議なことに、その「くもの糸」が、その場その場で変化し、いや進化しはじめ、成長していくのであった。
 語り手の私自身も、語っていてビックリして「ヘェー。そうなの」とまるっきり第三者的に別の誰かの話に感心しているというような感覚であった。

 先月三十一日には、「小中野生き活き森のおとぎ会」が開催されたので、私自身も子ども達に童話を話すことになった。その時の演題は、「くもの糸—その後のカンダタ—」とした。
 そのおとぎ会で私は最初に、「お釈迦様が蓮池のまわりを歩かれ、地獄で喘ぐカンダタを見つけられると、彼が昔、くもの命を助けたことを思い出され、極楽の蓮池から、一匹のくもを手に取って、その糸を、つうーっと地獄のカンダタの方に向かって垂らし始めた」。という、原作のままの情景を身振り手振りで話し始めた。
—そして—
「カンダタは、その一本の糸を登っていったが、途中で、いっぱいの地獄の亡者達が、その糸にぶら下がっているのを見た時『この糸は俺さまの糸だ。のぼってくるんじゃない』と叫んだところで、糸は切れ、カンダタは、また地獄の底に落ちていった。」とこれまた迫真の演技(本人評?)を混えながら語った。
 芥川龍之介の「くもの糸」は最終章で、お釈迦様はカンダタが自分ばかり助かろうとする無慈悲な心に、あさましくおぼしめされたと、結んでいる。
 私はこの最終章でこの物語は終ってしまっていいのだろうかということから、私自身「悪たれ川流之介」になって、その続きを子ども達に語り始めた。
—そこで—
 私は小道具として、私の携帯電話を取り出して、お釈迦様にメールを打つのである。
 私の携帯は、お釈迦さまのいる「極楽」と時空を超えて電波がとどくのである(本人評)
「お釈迦様(^o^)カンダタは、くもの命を一回しか助けなかったから、たった一度だけのチャンスを与えただけですか(;_;)」
 そしたらピロロッーンと返信メールが来た。
「私はカンダタのことを無慈悲な者といったけど、このままカンダタを見捨てたら、この私が最も無慈悲であろうよ」 
「だから安心をし、私はカンダタが救われるまで、ずうーっと何回も糸を垂らすよ」
 私は思わず携帯を握りしめ、また打った。
「お釈迦さまぁー。相手を思いやる慈悲の心というのは、相手が救われるまで思う無限の心なんですね」
 この小道具の携帯電話を使用して、子ども達に「思いやりの心」を伝えたかったのだ。 思いやりの心とは、相手を救うと共に、実は自分自身も救われていることなのだ。と…。
 私はイジメや争いのない社会を「語り」を通してわかってもらいたかった。
 カンダタは、お釈迦様からの「思いやりの糸」を毎日垂らしてもらうが、やはり「俺さまの糸だぁー」と叫んではまた地獄へ落ちていく。
—ところが—
 カンダタは、ある日気づくのである。
「俺は、無数の亡者達が糸につかまっているのを見ると、俺の糸だぁーっと叫びたくなる」
「そういえば、俺は生きてる時もそうだった」
「いつも俺だけが、自分だけが満たされていればよかった」
「他人のことなんか、どうでもよかった」
「そうだ、それがたった一つだけ…」
「くもの命を考えたことがあった」
「くもにも小さな命がある。あの時、草むらに倒れた時、踏み殺そうと思ったけど、このくもにも小さな命がある。可愛想だ。そう思って草むらに逃がしてやった」
「生命というのは、大切な生命なんだ。みんな生きている生命なんだ」
「そうか、あの糸は、俺だけの糸ではないんだ。皆なの糸なんだ」
「だから皆に、一緒に上ろうや」
「一緒に極楽に行こうよ。と叫べばいいんだ。」
 そうカンダタが気づいた時、お釈迦様はニコッと微笑まれたという。
 次の日、また極楽の蓮池からお釈迦様は糸を垂らされると、それはキラキラと輝いていた。
 その糸を見ていたカンダタの眼からも、キラキラとした一本の涙が頬をつたわった。

 この時、カンダタは地獄にいて極楽の心になったのだ。
 他の人を思いやり、生命の尊さ大切さに気づき、他の亡者達を救いたいと願いを行おうとするカンダタの心に、まさに、お釈迦様の心「極楽の心」が芽生えたのだ。それも地獄にいてだ。
—即ち—
「地獄、極楽」は場所や空間の問題ではなく、自らの心の問題であるのだ。
 このことを考えるとこの「地獄、極楽」のシチュエーションを考えると四つのパターンの心があることに私は気がついた。列記すると…。
①極楽にいて極楽の心
②極楽にいて地獄の心
③地獄にいて極楽の心
④地獄にいて地獄の心
 以上のように場所によって四つの心があるのだ。
 さあ、皆さん!!
皆さんは、どの心が一番よいと思われますか。
 順番をつけてみればどうでしょうか。
 どういうふうに選んでいきますか。迷いますよね。
 私だったら、この順番でしょうか。
 まず一番ダメな心から上げますと、②の極楽にいて地獄の心でありましょう。
 じゃあ、その反対の心としてのあり方から見ての一番は、先程のカンダタと同じように③の地獄にいて極楽の心に目覚めるということでしょうか。
 二番三番となると難しいですが、心としては①の極楽にいて極楽の心であり、三番目は地獄にいて地獄の心ではないでしょうか。
 私は、ここで皆さんに、あえて順番をつけてみるならばと問いましたが、言わんとすることは、場所や空間の問題ではなく、いかに自分の「心」の問題であるかということであった。
 つまり、前にも述べたが、自らの心の問題であり、私達は誰もが「いつでも どこでも」お釈迦様の心に目覚めることが出来るし、かつ反対にカンダタの心にもなるのだ。

 さあ!!今日から「お盆」である。私は本堂に掛けてある「地獄極楽の絵図」を見ながら自らを問わざるをえない。自分の心はと…。
 私達は、御先祖様をお迎えし、極楽の心で「お盆」を過ごしたいものである。
 そしてまた「極楽」にお帰りいただきたいものと願う。
 さすれば、一番最高は、極楽にいて極楽の心でということになるのであろうか。



合掌

    
     


 

戻る