曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
  天災は忘れた頃にやってくる されども 人災はどんな時でもやってくる
  
和尚さんのさわやか説法197
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

  今月の「さわやか説法」では、久しぶりに「格言されどもシリーズ」を復活させたくなってしまった。
—というのも—
 今年に入ってから、「安全」を脅かす事件が立て続けに起きているからだ。
 中国から輸入された「冷凍餃子」の薬物混入事件では、「食の安全」がクローズアップされ、また、海上自衛隊の最新鋭のイージス艦が非力な漁船に衝突した事件では「海の安全」「人の安全」が問われている。
 ちなみに「イージス」とはAegisと表記しギリシャ神話でゼウスという空を支配する神が着用する胸甲のことだそうだ。
 なるほど、あの鋼鉄で覆われた威容な戦艦は、そんな意味がこめられていたんだ。
 薬物混入の餃子事件も、小さな漁船を真二つに引き裂き尊い生命を犠牲にしたイージス艦の事件も、これは人間が人間に対して「起きてはいけない」「起こしてはいけない」災害なのだ。
 どちらも、想定外のありえない出来事であり、当事者の方々には天災ともいうべき事件であり、「人災」そのものであるといえよう。
—だから—
 私は、かの有名な格言が思考の中で回転し始め、「されども」と言って警告を世間に与えたくなってしまった。
「天災は忘れた頃にやってくる。されども人災は どんな時にもやってくる」と…。
 どうですか?皆さん!!
「人災」は、どんな時でも、いつでも、やってくると思いませんか?
 人災は想定外のことばかりではなく、身近なところに、日常茶飯事的にも起きる。
 例えば、交通事故や色々な事故。また、家庭や学校、職場でのケンカやいじめ、トラブルやハラスメント。はたまた傷害や殺人事件など、社会の中で、人間同士が人間に対して引き起こす、偶発的、突発的なものから、故意的に起こす事件まで全ては「人災」であるのだ。
 そして、それは如何(いか)なる時でも、やってくることは確かだ。

 この「天災は忘れた頃にやってくる」という格言は、古き時代からのように思われがちだが、実は近代のものである。
 1923年(大正12年)午前11時58分。相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。
 そう!!関東大震災である。誰もが予想しえない突発的なことであった。ちょうどお昼時でもあり、地震による火災も連鎖し、まさに首都東京は灰燼と化す未曾有の大惨事となった。
 この調査をしたのが明治大正時代の物理学者であり、作家でもあった「寺田寅彦」という東京帝国大学(現東大)で実験物理学の研究に打ち込み、後には地震や火山などの地球物理学の研究に力をそそいだ第一人者の人物であった。
 彼は、関東大震災の現状を目の当りに見て、社会や政治、そして我々人間への警告として「天災は忘れた頃にやってくる」と、自然への脅威をいつも口にしていたという。
 寺田寅彦は、自然界の天災は、いつ、いかなる時、やってくるか分からない。だから日頃からの防災意識や、その備えが大切であることの教訓として言った言葉なのである。
 確かに、地震、津波、火山の噴火等々は突如として我々を襲う。予測できるのは台風や大雨ぐらいではあるが、天変地異は多分に予測不可能である。
 人災とて、被害にあい、襲われる側にしてみれば、やはり突発的なことなのである。我が身に及ぶとは誰しも思っていないことであり、予測不可能の場合の方が多いのだ。
 ただ人災においての加害者の側は、どのような被害を及ぼすかは予測可能なのである。
 それは、かのイージス艦だって、漁船が勝浦沖にたくさん出ていることは分かっていたのだ。そこに戦艦が割り込んでいくならば、どうなるかは、船に乗っている者ならば分かりきったことである。
 薬物混入のこととて同じである。薬物は入れようとした意思の持ち主が入れなければ混入されない。加害者の側は、どのような事態になるかは予測できる。だから「人災」と言えるのだ。
 人が人に対して、人間社会に対して、あるいは自然界に対しても害することは、人災といえる。ゴミの不法投棄や温暖化現象も、人災なのだ。
 そう考えるならば、人災はどんな時でも、いつでもやってくるものであり、また自分自身がいつ引き起こすかもしれない、「自己の問題」でもあるのだ。

 お釈迦様の「真実の言葉」を詩文の表現で語られている『法句経(ほっくきょう)』という経典がある。
 このお釈迦様の言葉の中に

  「すべてのもの 刀杖(つるぎ)を怖(おそ)れ 
   すべてのもの 死をおそる 
   おのれを よきためしとなし
   ひとを害(そこな)い、はたそこなわしむるなかれ」(法句経10-129)

 と説かれ、更にまたこのように語る。

  「すべてのひとは 幸福(たのしみ)をこのむ
   されば おのれ自らの
   たのしみを求むる人 他人(ひと)を害(そこな)うことなくば
   後世(のち)にたのしみをえん 」(法句経10-132)

 お釈迦様は、「すべての人は暴力や災いを怖れ、いかなる人も死を怖れるものだ。それ故に、他の人を自分の身にひきくらべて、決して害(がい)するようなことや、災いを及ぼしてはならない。」と、説かれているのであり、更に、
「すべての人は誰もが幸福でありたいと願っている。だからこそ自分自身の幸福を求める人は、決して他の人を傷つけ害することがなく、後の世に、安楽を得ることができるのだ」と示されている。

 ここにお釈迦様が語られていることは、至極当然のことであり、あたり前のことである。
—しかし—
 切実な言葉として、ズシンと胸に響く。
 他を傷つけることはまさに「人災」である。このことは、絶対に忘れてはならないのだ。常に他に対する思いやりの心をもち、お互いに幸福を共にする社会を作っていかねばならないのである。
 どうぞ、読者の皆さんも、今、日本国内や世界各地で起きている天災を対岸の火事的に見るのではなく、自分の身の回りにも起こりえるものだと自覚し、さらにはまた「人災」も同じことが言えると認識してもらいたいものである。
「天災」は忘れた頃にやってくるかもしれないが、「人災」は、どんな時でもやってくるのだ。
  合掌
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