芝居版 「創作 ぼくざん物語」 パートⅠ
第一幕 豆腐屋「うんど屋」の井戸端
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和尚さんのさわやか説法199
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
皆さんは、郷土の偉人、明治期日本の名僧と称される八戸湊町出身の「西有穆山(にしありぼくざん)」という和尚様を御存知であろうか?
知る人ぞ知る!!知らない人は、まるっきり知らない。まぁ!!それはその通りですが…。
来年は冒頭で紹介した西有穆山和尚様の百回忌にあたり、再来年2010年は、没後百年を迎えるのである。
つまり穆山様は、1910年(明治43年)に御年九十才で亡くなられたのであった。
—そんなことで—
穆山和尚様の遺徳を偲び、あるいは顕彰する為、墨跡展や法要、また、色々な企画が来年あるいは再来年にかけて、催されることであろう。
そのようなことで、八戸市を拠点として活動するある劇団から、今年早々に、こんな依頼が私にあった。
「和尚さん!!再来年は西有穆山禅師様が亡くなってから、百年目だそうですね。それで、穆山様の芝居をやってみようかと思ってます。」
「ヘエー。それは、すごい!!がんばって下さい。」と私は激励した。
—そしたらである—
「それで、穆山様に関する本を何冊か読みましたが、仏教用語がいっぱいだし、何が何だか、よくわからず、うまく台本が書けないのです」
「確かに、そうかもしれませんねぇー」と相槌を打つと、間髪を容れず彼は、こう言った。
「そこで、和尚さん!!あなたに芝居の台本を書いてもらいたいんですよ!!」
私は、びっくりどんでんしてしまって、即座に手を横に振りながら
「とんでもなぁ〜い!!私に芝居の台本なんて書けるわけないでしょっ!!」と、彼の声をさえぎった。
「いや、じゃあ台本でなくても、何かその元(もと)になるようなものを書いてもらいたいのですよ!!」
「なんとか!!頼みます」
私は、彼の押しにタジタジとしながら頷ずかざるを得なかった。
頷ずいたものの、いざ穆山様の生涯や生き方、その思想。あるいは時代背景等々を考察して書くということは大変であった。
しかも、芝居の元となるような書き物であって、単にエピソードや伝記物を書けばいいというものではなかった。
困った。苦慮、苦悩、苦痛の苦々(くく)八十一!!と頭を抱えてしまった。
—そこで—
こうなったら、あとはケツをくくって、頭を苦々(くく)って、耐えることにし、破れかぶれのひっちゃか、めっちゃか、空想、妄想、幻想、仮想をつくし、奇想天外にして、偽装工作までして、高山げんちゃんの芝居版「創作ぼくざん物語」を書き上げることにした。
どうぞ皆様には、史実と違うとか、時代考証がなってないとか、そんなことは、あの時代にはなかったなんて言わないで、甘んじてお許しをいただきたい。
まさに、仏教用語を多用せず、平成の現代用語や方言を駆使して、江戸時代、明治時代の穆山和尚様を語り、その生き様の根底にある思想を現代とリンクさせて書き著してみたいのである。
—さぁ!!それでは始まりゝ—。
「おぉ〜い。なをさんよー。豆腐一丁くれないかぁー」
「はいよ!!ちょうど今作り立てのお豆腐が出来上がったところだい」
「さぁー。持っていきな!!」
「お前さん!!早く、水の中から一丁すくってやんな」
威勢のいい、軽やかな声が、小さな豆腐屋に響いた。
なをさんとは、先述した西有穆山和尚様の母であり、お前さんと呼ばれた店の主人は、父親の笹本長次郎であった。
なをさんは気性闊達にして、まことに聡明な女性であり、長次郎さんは、皆なから「ほとけ長次郎」と言われるぐらいの、お人好しで世話好きな方であった。
「なをさん、聞いたよ。息子の万吉さんが、花のお江戸で、牛込とやらのお寺の住職となり大和尚になって帰ってくるんだってねェー。」
「こいつは、目出てェーやぁ!!」
「よかったねェ!!なをさんよぉ」
この笹本家のことをよく知っている顔なじみの船乗りが愛想を振りまいた。
「何が目出たいもんか!!万吉ったら、どんなもんだか」
と、客のお愛想にキッと睨み返した。
「おっとっと。長次郎さん、よかったべェ」
「はいゝ。オラも安心しましたよ。万吉ったら十三才の時、和尚様になるってじょっぱって、なったらいいが、どったらふうになるが、心配してらったのっす」
長次郎は、水から掬(すく)った豆腐を船乗りに渡しながら、目を細めて言った。
ここ豆腐を商(あきな)いとする笹本家は、屋号を通称「うんど屋」と呼ばれ、地域住民から親しまれていた。
この「うんど屋」は、当時、八戸町や小中野方面から湊町に渡る唯一の橋「湊橋」を降りたところにあり、人の往来で賑わい、行商や、あるいは海産物を求める人々や船乗り達が行き来し、いわゆる現代でいう商店街が形成されていたところにあった。
だから、客もひっきりなしに入ってくる。豆腐を買いがてらに、茶飲み話から、世の中の出来事や情報交換の場所でもあり、噂話に花咲かせる場所でもあったのだ。
時は江戸時代。天保から弘化の時代だ。今、NHK大河ドラマでは「篤姫(あつひめ)」を放映しているが、篤姫の夫である徳川家定の前の第十二代将軍家慶(いえよし)の時代である。
天保の大飢饉、天保の改革。そして老中水野忠邦が改革失政の為、失脚。阿部正弘が老中首座に就いた頃のことであり、日本の世情は揺れ、維新に向かうきざしが見え始めてきた時代であった。
その時、穆山様は江戸の牛込鳳林寺の住職となり、若干23才の新進気鋭にして将来を嘱望される青年僧侶であった。
まさに、この時、穆山様は江戸期風雲の中にありて、偉才を放つ若き宗教者として頭角を表わし始めた時でもあったのだ。
「なをさんよぉー。万吉が帰ってくるってかぁー。」
近所のおばさん達2、3人がドドッとなだれ込んできた。
「万吉だば、立派になってなぁー。」
涙ぐんで、おばさん連中は、なをさんに近づいて来た。
「いやぁー。万吉だば何(な)して帰ってくるんだが!!」
「なんも、帰ってくることはないのに!!」と険しい顔をした。
店の中にいた皆は、万吉青年が帰ってくるのを母親である、なをさんが一番心待ちにしていると思っていたのに、その険しさに困惑した。
母は母として、母は母にして、万吉を思わない日は、一日たりともなかった。
いつも無事を祈り、元気で修行をし、勉学に励んでくれることを祈っていた。
—だからこそ—
母は母として、いかに子の万吉を迎えるかの決心をしていた。
それは、まさに厳しくも、深い愛情であったのだ。
それは、どのような「母の心」であったのか?
あるいは、どうして穆山様は少年万吉の時代、和尚さんになろうとしたのか?
そのことは、また次号の「さわやか説法」にて……。
しばらく芝居版「創作ぼくざん物語」は続きます。乞う後期待を……。 |
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合掌 |
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