曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2010年6月19日(土)
  悪たれ川流之介版   「くもの糸」のその後のその後 パートⅠ
  
和尚さんのさわやか説法219
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 先月号まで、この「さわやか説法」では、平成20年6月号から2年間に渡り、郷土の偉人であり名僧と称賛される西有穆山禅師を題材にして芝居版「創作 ぼくざん物語」を展開してきた。
 然るに20回目の先月号において、穆山禅師が初心に立ち戻り、新たなる決意のもとに修行に旅立つところで、その物語を完結させてみたのである。
 今月号からは、私自身も穆山様と同じく「初心」に立ち帰り、また「さわやか説法」を新たなる思いを込めて語っていきたいと思う。
 私の「初心」は穆山様とは天地懸隔。「月とスッポン。」「重ね着とスッポッポン。」「和尚」と「お醤油。」というぐらい大きなへだたりがあり、とても比べようもないがともかく「白紙の状態」で望みたいのである。
 まぁ!!いつも締め切りがせまっても書けなくて、目の前にはまっさらな原稿用紙があり常に「白紙状態」であることはまちがいないけれど…。(涙)
—実は—
 以前から、この「さわやか説法」で書きたいことがあった。
 それは、平成16年4回シリーズで連載していた「くもの糸」の続きである。
 皆さん御存知の如く『くもの糸』は文豪、芥川龍之介の代表する名作中の名作である。
 それを、私はペンネーム「悪たれ川流之介」となって勝手に自己解釈と脚色を試みて自説を展開していた。
 その自説の根底にあったのは「慈悲の心」であった。
 お釈迦様がカン陀多(カンダタ)に教えたかった心とは、あるいは何に気づいてもらいたかったのか…と。
 
 この「悪たれ川流之介」版の「くもの糸」を私は、市内のいろいろな講演会で、あるいは県外においても、身振り手振りよろしく実演をしながら語っていた。
 すると不思議なことに「くもの糸」の物語も、カンダタも気づかぬうちに成長をしていたのである。
 そこで今回から、その成長記録を述べてみることにしよう。
 平成16年版の創作「くもの糸」物語の完結編は、このようなことであった。

—あれから—
—カンダタはどうなったのか—
 カンダタは毎日、天から降りてくる一本の「くもの糸」にぶら下がっては「俺様の糸だぁー。」
「皆な降りろゝ」と群がる地獄の亡者達にいつも叫んでいた。
 でも、気がついたのである。「あの糸は、お釈迦様の糸だ。皆なの糸なんだ。」
「だから、皆な一緒に上ぼろうよ」と叫べばいいのだと。
 実際、次の日に降りてきた糸にぶら下がった時、そう叫ぶと、昨日まで、プツンと切れていた糸は、ビクともせず切れなかったのである。
 カンダタは一生懸命上っていった。
 ここで読者の皆様はカンダタは極楽に上りきったと思ったにちがいない。
—実は—
—なんと—
 カンダタは、まだ地獄にいたのである。
 何故なのか!!それはカンダタは自分から手を離したのであった。自らが地獄へ落ちて、多くの亡者達皆なを上らせていたのだ。
「上(あ)がれやゝ」
「しっかりと上(の)ぼっていくんだぞぉー」って叫んでいたのである。
—その時—
 カンダタのいた「地獄」は「極楽」となった。そう、カンダタの心に皆なを思いやる「慈悲の心」が芽生えた時、地獄は極楽そのものになったのだ。ここまでが平成16年版の「くもの糸物語」の完結部分であった。

 さて、ここからが、カンダタの「心の成長記録」である。
 カンダタは、とてつもなく成長していた。それも、本人が気がつかないうちに…。いや気づくとか、気づかないとかの問題ではなく、そんな自意識は全く無いのである。
—でも—
 その成長を、またカンダタが何に目覚めたかそれを知っているのは、極楽にいて、じっと見守っていたお釈迦様だった。
「ほほう。カンダタは何かに目覚めたようじゃな…。」
「ほれッ!!あのように皆なを、極楽へ上ぼらせようとしているわい!!」
「それも、自分から手を離して地獄へ自ら落ちていってじゃ」
「あのカンダタが自ら手を離すとは、今までのカンダタでは考えれないことであった」
 お釈迦様は感嘆の声をもらしながらニッコリ微笑まれていた。カンダタに一体、どんな心境の変化があったのだろうか。
 何故!!自分から手を離したのか?なんといったって、一番ビックリしたのは、地獄の亡者達だった。
 皆なは、ささやき合っていた。
「オイゝ。何でまたカンダタは、あんなに優しくなったんだい?」
「そうよ。昨日までとうって変わって、今まで俺達には、俺様の糸だー。なんて叫んでさ」
「それが、今じゃ、この糸は皆なの糸だぁー。しっかりと上がれよぉー。なんて俺達を励ましてくれてるんのよ」
「何か魂胆でも、おるんじゃねェーかい?」
「まさかぁー。あのカンダタの一生懸命さはそんなこと考えてないような気がするな」
「そうだゝ。何かひたむきというか、心から俺達のことを思ってくれてるよ」
 亡者達はお互いに言いたいことを言い合っていた。
「何でもよ。あの極楽から降りてくる糸は、昔、カンダタが助けた蜘蛛だったことに気づいたからだってよ」
「昔、生きていた時、たった一回だけ良いことをした、それが蜘蛛の生命を助けたってことよ」
「それをお釈迦様が思い出されてクモの糸を降したってことさ」
「いやゝ。あの蜘蛛自身がカンダタは命の恩人だから助けたいと言ったんだそうだ」
「へェー。あの蜘蛛がねェー」
—そうなんだ—
 カンダタは、お釈迦様や、あの蜘蛛の「心」を素直に受け取ることが出来たのだ。
 そのことから、カンダタはお釈迦様の生命(いのち)、蜘蛛の生命(いのち)、そして皆なの生命(いのち)、あらゆる生命(いのち)の中で生き、生かされていることに気づき目覚めたのであった。
「生命(いのち)。ゝ。尊い生命(いのち)。生きているもの、生かされているもの、全ては、皆な支え合って、お互いが生きている。」
「俺の生命は俺だけのものでなかった。皆なの生命でもあるんだ。
 そんで皆なの生命は、それぞれでもあっても、俺の生命でもあるんだ」
「だから、皆なを大事にし、俺をも大事にしなければならない」
「そうだ!!それには、皆なの為に何かをしたい。」
「何だか無性に皆なの為にしたくなってきた」
—そう—
 カンダタの心に「慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)」の四つの無量なる心が芽生えた瞬間であった。
 「慈(じ)」とは相手を思いやる心。 「悲(ひ)」とは相手の苦しみ悲しみを自分のこととする心。 「喜(き)」とは、相手の喜びを自分の喜びとする心、そして「捨(しゃ)」とは「俺が ゝ」という「自己中(じこちゅう)」の心を捨て去る心ということなんだ。
—しかし—
 慈悲の心とは、単なる「優しい思いやりの心」ということではないのだ。更に他の人の苦しみ悲しみが分かる。その「心」であるとしても、そればかりではない。
 それは、自分の体験した苦しみ悲しみを他の人には味わわせたくない心、そして同じような体験をしているかもしれない人に、温かい手を差し伸べずにはいられない心。
 これが「慈悲の心」の真底なのだ。
 まさに、自ら手を離して「地獄」に落ちていったカンダタが、そうだった。
 カンダタは自らが気づかずとも、皆なに手を差し伸べずにはいられなかった。
「カンダタは、本当に成長したのぉー」
 お釈迦様は心から微笑まれた。
 来月号もまたカンダタの心の成長を綴(つづ)ります。
  合掌
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