『月刊ふぁみりぃ』 2011年2月19日(土)
イソップ物語 「北風と太陽」再考 |
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和尚さんのさわやか説法225
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
今年の冬は、全国まさに厳冬にある。
当八戸地方も、例年以上に寒さが厳しく、津軽地方はもとより、日本海側の北陸から山陰地方もまた、豪雪の中の豪雪であえいでいる。
日本海側が雪が降りしきればしきるほど、太平洋側は寒さがより強い。
これはシベリア寒気団が上空からおおい、西高東低の冬型気圧の配置になると「西風」が吹き、津軽地方はビュービューと吹き荒れ、八戸の南部地方はヒューヒューとした「北風」となって、八甲田の連峰から吹き降ろしてくるからだ。
—てなことで—
本年の正月号は「イソップ物語」の「ウサギとカメ」を再考してみたことで、今回もまた、別の寓話をあれこれと違う視点から再考、再論してみよう。
その題材は何であろうか?
もう、皆さんは既にお気づきのことでありましょう。
—そう—
「北風と太陽」なのだ!!
この物語の内容はこうである。
「あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。
そこで、通りかかった旅人の上着を脱がすことができるかというを勝負をするのだ。
まず最初に「北風」が力いっぱい吹いて旅人の上着を脱がそうとするが、しかし旅人は上着をしっかり押さえてしまう。
更に強く吹けば吹くほど彼は、しっかり押さえてしまい、結果的に脱がすことができなかった。
そこで次に、太陽が温かく照らし出すと、旅人は自分から上着を脱ぎ、更に太陽が熱さを増すと、暑さに耐えきれず、また一枚と上着を自ら脱いでしまった。
これで勝負は太陽の勝ちとなった。」
これが大体のあらすじで、これに、イソップさんとか後世の訳者や解説者が独自の教訓を最後に述べるのである。
この教訓は、勝者の太陽に添ったものであり、敗者の北風に立った立場の教訓は勿論ないし、北風の味方になったりかばってやることもしていない。
—そこで—
この高山和尚が「イソップ物語」再考として、北風さんの味方になりというか「見方(みかた)」を変えて、論を展開してみよう。
この「北風と太陽」の物語に登場するのは三人であり、誰が主役であるかだ。
三人とは、北風さんと太陽さん、そして旅人さんである。
普通的に見れば、皆さんは「主役は太陽だ」と答えるであろう。
その論拠は、この寓話の教訓である。
北風のように冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑(かたくな)になるが、逆に太陽のように暖かく優しい態度で接すると人は自ら心を開いてくれるものである。
だから太陽のように優しい心が大切なのだ。とのことである。
これが「強制と寛容」とか、あるいは「叱ると誉める」との対比論として展開する。
つまり、北風さんを悪者(ヒール)扱いにして、ことさらに善者としての太陽を引き出している。
確かに、それは冷たさよりも暖かさであり厳しさよりも優しさであろう。
でも、冷たさ、厳しさは「悪(あく)」であろうか。
時には、厳しさも冷たさも必要であろう。
この「北風と太陽」の絵本とか童話本を見ると、北風は空気であるが故に、その表現法として「雲」を登場させ、しかも白色ではなくて大抵が灰色とかにして暗く描き、さらにその雲がほっぺをふくらませ、目を怒っているかのようにしている。
いかにもイメージ的に悪者(ヒール)扱いなのだ。
かたや、太陽は顔を丸まるくし、ニコニコ笑って描き、しかも色は赤色、ピンク色の、まさに暖色系である。
—そう—
絵本の作者までが、太陽さんに味方して、鼻っから、北風さんを嫌われ者に仕立て上げているのであった。
作者も読者も、皆さん、太陽さんが主役であり、その立場になって「優しさ」を強調している。
—でもね—
この物語の主役は太陽ではなく「旅人」なのだ。
そもそも、この物語の問題点の発端は北風さんと太陽さんの「力比べ」であって、その対象となったのは、「旅人」である。
その旅人のとる行動によって物語は展開するのであるから、主役は「旅人」でなければならないのだ。
でも、主役であるはずの旅人は、物語の中で、一切口をきいてはいない、会話をしているのは北風と太陽なのだ。
つまり、ここでイソップさんは、両者の会話から場面を想定させて読者の私達に問題点を考えさせている。
それは、「私達自身」が、この「旅人」なのだということであり、私達の「心」とその「行動」を言っているのである。
もしかすれば、北風の厳しさとは、私達はコートで自分の身を守り脱ぐことなく耐えながらも、前に進むべきことを教えているのかもしれない。何も北風さんを悪者(ヒール)扱いにしてはいけないのである。
それに太陽さんが照らし、暑くなったとてコートを脱ぐとは限らないのだ。
現代は、紫外線対策、UVカットで衣服をかえって身につける方もいる。
(ついつい、北風さんの味方をしてしまいました。)
それと私は、こうも思うのである。北風さんは何故、「北風」でなければならなかったのか?
これは古代ギリシャの神の物語が根底にある。「太陽神アポロンと北風ボアレス」の力比べがあったからだ。だから「南風」だとダメなのである。南風だったら、旅人は太陽に照らされるよりも先に、さっさとコートを脱いでしまうかもしれない。
そうすると、やはりこの物語は成立しないのであって、北風と太陽を対比させ、力比べをすることによって、より、厳しさと暖かさによって旅人のとる行動から、その教えを具現化したのである。
—でも—
私達の環境も、人生にも寒い冬があり、暖かい春も、暑い夏も、爽やかな秋も必要なのである。どれ一つが欠けても良くはないのである。
厳しい暖かさもあるし、厳しさがあるからこそ、人の暖かさが、より温かく感じれるかもしれない。暖かさの中に自己を律する厳しさを持っている人もいる。
厳しさも暖かさも表裏一体のものなのだ。
どちらかが一方的なものであってはならないのだ。
現代の省エネ、エコロジーの時代こそ、この北風さんと太陽さんの力比べは必要とされているのではないか。
つまり「風の力」と「太陽熱の力」である。これによって、旅人たる私達は、その恩恵をいつも、いただいていることになる。
私達は北風さんにも太陽さんにも生かされて、生きているのだ。
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合掌 |
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