『月刊ふぁみりぃ』 2011年4月16日(土)
東日本大震災の悲劇 |
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和尚さんのさわやか説法226
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
「おっ!!地震だな!!」と思った瞬間、私は叫んでいた。
「こりゃあ!!大きいぞぉー!!」と……。
そばに誰もいないにもかかわらずだ。
そして、また叫んだ。
「これは、長い!!」
—そう—
時計は平成23年3月11日、午後2時46分を指していた。
=東日本大震災=
震源地は宮城県沖の海底!!
マグニチュード9.0の大地震であった。
この大地震の影響は、地震そのものばかりではなかった。
かつて人類が経験したことのない「大津波」の襲来である。
震源地に近い宮城県の海岸線地区にある寺院住職の証言である。
「この辺は、大きな砂浜で、砂浜には絶対に津波は来ないと我々は、今までそう思っていたし、昔からそう伝えられていた。」
「しかし、今回は違っていた。あの向こうに見える松林の防潮林(高さ15m〜18m)の上を越える黒い波頭が見えたのさ」と、はるか向こうへ見えるその松林を指さした。
「文献によると、この辺に津波が来たというのは、平安時代のころかというから、千年ぶりの津波だそうだ」と悲しそうな声で顔をゆがめて笑った。
千年以来の大津波!!
その住職さんは、地震発生と同時に庫裡を飛び出し、地震が収まったかと、何げなく向こうの松林を見たとき、その林を越える黒い波が見えたそうだ。
—その瞬間—
身が凍り、心臓がギュッと縮み、声ならぬ声で「何だぁー。あれはー!!」と叫んでいたそうだ。
—これは、現在、命からがらその難を逃れ、生きているからこその証言である。—
—その波に呑み込まれた方々の声は聞くことが出来ない。—
このような悲劇は、東日本の太平洋海岸線、全ての地域で起こっていた。
=同時刻=
我がふるさと八戸にも悲劇が発生していた。人々は地震の大きさに恐怖し、誰もが驚愕の声を上げていた。
時を経ずして、海辺の地域である鮫、白銀、小中野、江陽、沼館、市川地区には、消防車のスピーカーがけたたましく連呼していた。
「大津波警報!!大津波警報!!」と……。
私は、フト思った。
「あれ津波警報じゃないの?」
「なんで大(だい)がつくんだろう?」
なんて、たかをくくっていた。
こちらは、それより本堂や位牌堂、そして墓地の地震被害に対応するのが精一杯であった。「三陸はるか沖地震」の時に比べると案外軽微であったことにホッとしていたぐらいである。
—ところがである—
八戸の穏やかな海は牙をむいて襲いかかってきた。
大自然の猛威に、私達はなすすべもない。ただただ翻弄されるばかりであった。浜は壊滅的大打撃を受け、人々は逃げまどうしかなかったのである。
—と同時に、東北全体が一瞬にして停電となり、東日本は日が暮れるとともに漆黒の闇へと突入した。
かつて、このような広域に渡る大停電なんてあっただろうか。
電灯、TVはもちろん、電話から、あらゆる電化製品は使えなくなり、ケータイ電話までも、使用不能となってしまっていた。
闇の世界に、無音の世界!!回復するまでの期間がとてつもなく長く感じられた。
—そして—
13日(日)午前4時に回復したことにより、TVをつけると、怖しい光景が眼に飛び込んできた。停電中でのラジオでは「大変なことになっている」と分かっていても、聞くと見るとは大違いである。
「こりゃあー」と声にならぬ声で絶句した。
この時、あの岩手三陸、宮城、福島に住む本山時代の修行仲間や同級生、また友人、知人の和尚さん方の安否が気になり、矢継ぎばやに電話をしたが、つながらない。
何度かけてもだ。あるいは、全国の私の仲間達は、八戸の惨状をTVで見ては、一切に私の寺やケータイに掛けたというが、一向に通じない。
それでもなんとか通じ始めると、色々な各寺院の消息が伝えられてきた。
宮城県の著名な老和尚様は津波にお寺ごと流され亡くなられたそうだ。
あるいは陸前高田の法友の寺は、お墓ごと全て流されてしまい、避難所にいるそうだ。
また、釜石のお寺は海抜20mのところにあるが、そこまで波が来て全壊したとか…。etc…。
それら被災した寺院の情報と共に、高台にあったり、海辺より少し遠い所に位置し、津波の難から逃れた寺院は、住民の避難所になったり、亡くなられた被災者の遺体安置所になったりしているという。
—そして—
そこには食料がない、水がない、着るものがない、何もかもが不足しているとのことだった。
私は思った。どうにかしたい。でも、どうにもならない。
何とかして上げたい。でも何ともできない。
もう、いても立ってもいられなかった。
現地に行き、一言でも声をかけたい。そんな衝動にとらわれていた。
—そして—
意を決した。
45号線を南下し、三陸から仙台、そして福島まで被災した法友の寺院を尋ねようと!!
幸いにも、常現寺には「JVA号」(通称ジャバ号)と呼ばれる2tトラックがある。
「JVA」とは「常現寺ボランティア、アソシエーション」の頭文字を取った何でも活用できるトラックのことである。
これに救援物資を積め込んで出発するのだが、準備期間は春彼岸の中日が終わった翌日の22日のたった一日しかない。
でも何とかしたいと思い電話を掛けた。
その先は、八戸商工会議所にある「八戸ラーメン会」と「八戸せんべい汁」を取り扱っている会社であった。
何故に、その二点なのか?
それは、被災地に何とか電話が通じて聞いたところ、「汁ものが食べたい」「それも温かいものを」との要望だった。
だったなら、どうせ八戸から行くんだからと思い、「八戸ブランド」の「ラーメン」と「せんべい汁」にした。
—行き先は、岩手県は田野畑、宮古、釜石、陸前高田、そして宮城県は大船渡、気仙沼、石巻と45号線縦断である。
ところが、その道路は……。
どんな状況だったのか………。
この続きは、また来月号で、………。 |
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合掌 |
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