『月刊ふぁみりぃ』 2011年8月13日(土)
「お盆の心」のキーワード |
|
|
和尚さんのさわやか説法229
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
今年の「お盆」ぐらい悲しい「お盆」はない。
五ヶ月前の、あの3月11日。東日本大震災による巨大地震に大津波。
青森県から三陸沿岸の岩手、宮城県、更には原発問題を抱える福島県、そして茨城、千葉、東京と関東全域にも、亡くなられた犠牲者、あるいは行方不明者の方々がおられる。七月末現在で死者15,680人、不明者4,830人とされるが、この大地震に関連して亡くなられた方々は、もっとおられるであろう。
つまり避難所で亡くなられた方、あるいは仮設住宅でひっそりと……。また自ら命を断った方々もおられるし、災害復旧に従事しての労働災害の方々もおられる。
多分、判明している方々は氷山の一角であり、それらの全ての関連死をも含めると、相当数の犠牲者がおられることは間違いないだろう。
まさに、東日本全体が「悲しいお盆」を迎えた。
いや、日本全国民が、そんな「お盆」を迎えているのである。
もしかすれば、一家全員が犠牲となられ、迎え火を焚く人がいない御家族もあるかもしれない。
だから、私達は今年の「お盆」は自分の御先祖ばかりでなく、被災し、犠牲となられた方々への慰霊と鎮魂の心を込めた「お盆」としなければならないのだ。
お盆を迎える際に、盆棚やお仏壇の前に、ナスやキュウリに割りばしや短い棒を、それぞれ四本刺して、牛と馬に見立てて、お供えをする。
なぜ馬と牛をお供えするのであろうか?
それは、私達の極めて情緒的な心が込められているからだ。つまり、キュウリの馬は、あの世からこの世に亡き人が、来る時には、駿馬へ乗るように速く戻ってこられるようにと願い、またナスの牛は、あの世に帰る時は、ノロノロとゆっくり帰れるようにとの想いが込められているのであった。
あぁ…。それなのにそれなのに。わが奥様なんぞは、ただただ割りバシをナスとキュウリにぶち刺し、脚がアッチへ曲がり、コッチへ向いての前かがみ、後ろかがみの、とても乗れるような牛、馬ではないのである。
「もっと、シャキッとした牛とか馬にしろよ!!」と思いながら毎年お盆を迎えている。
今年は、意を決して奥様に言おうと思っているが、なかなか恐ろしくて言い出せないでいる。
さて「お盆」は、今から二千五百年前のお釈迦様の時代がルーツとされており、それが日本に伝来し、初めて「盂蘭盆会(うらぼんえ)」として営なわれたのは、斉明(さいめい)天皇(657)の頃であるとされている。
それは、日本古来からの亡き人を偲び、祈るという民俗信仰である祖霊崇拝と仏教が一つに溶け合い、日本独自の宗教行事として、現代にまで受け継がれてきている。
緑 色こき
きよきこの宵
我 なき人の
み魂よ きませ
み仏迎え
み恵み仰がん
み恵み仰がん ♪
この歌は、仏教讃歌である「み魂まつり」の一番の歌詞である。
この歌と出合ったのは、駒沢大学在学中の時である。課外クラブ活動で「児童教育部」という都内各所にある「日曜学園」に配属された時のことであった。都内有志の各寺院が本堂、境内を開放し、地域の子ども達と共に学び、交流を図るボランティア活動であった。
それは「日曜学園」の名前の如く、毎週日曜日に開放される。平日は大学に通い、日曜日は、その学園に通っていた。
各寺院における学園の年中行事で最大の行事が「み魂まつり盆踊り大会」であって、それはそれは盛大な「盆踊り」であり、色々な趣向をこらしては、子ども達や地域の人達に喜んでもらえるような企画を立てた。
私は、その当時、盆踊りの太鼓をたたかせれば右にでるものなし(自画自賛です)と言われるぐらいの名手でもあった。「ドン ドン ドッカラッカッカ」太鼓本体を打ち、太鼓のフチを調子良く打っては盆踊りを盛り上げていた。
これがヘタだと、踊り手に影響する。
盆踊りの花形スターが「太鼓打ち」であったのだ。
だから、ロートルになった今でも、太鼓の音を聞くと、胸が騒ぎ血肉が湧き踊るのであった。
その盆踊りの始まる前での式典の時に歌ったのが、先の「み魂まつり」の歌であった。「盆踊り」とはいえ、最初に亡き人の為に祈りを子ども達と一緒に捧げたのである。
つまり、盆踊りは、大勢が集まり踊ればいいというばかりでなくその根底には、亡き人をこの世に呼び寄せ、共に踊り、あるいは私達が元気で仲良く集まっている姿を見てもらうことにあったのだ。
「お盆の心」のキーワードは、この「迎える」ということなのだ。
亡き人を、この世に迎え、子孫と共に、愛する家族と共に「ひとときの安らぎ」と「ひとときの安楽」を御一緒させていただくことにあった。
今から二千五百年前、お釈迦様のお弟子の中に「目蓮」という「神通(じんつう)第一」と称せられる方がいた。
目蓮尊者は、「神通第一」というが如く、この世でも、あの世でも、その力によって何でも見通すことができたといわれる。
目蓮尊者は、ハタと亡き母上様のことを思い出され、あの世を神通の力で見てみると、何と、あの優しい母が安らぎ幸せでいるかと思い気や、苦しんでいる姿が見て取れた。
嘆き悲しみ目蓮尊者は、お釈迦様に、その様子を語ると、お釈迦様も共に悲しみ、こう助言されたという。
「その母を救わんとするならば、多くの衆僧を集め、心からのお供えを棚に盛り、供養するならば、その功徳によって、汝の母は救われよう!!」
そのお言葉を聞くや目蓮尊者は、七月十五日(旧暦八月十五日)の「自恣(じし)の日」という多くの僧侶が集まる日を選んで、母の為に棚を作り、法要を営んだのである。
これが後の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となり、盆棚をまつり、沢山のご馳走を並べて供養することになったと言われる。
母は、目蓮尊者の孝心(こうしん)と功徳によって、この世に迎えられ供養を受けて、あの世に送られては安らぎの世界で幸せになられたのであった。
今回の東日本大震災で尊い生命を失くされた多くの方々への想いも含めて、盆棚を飾り、供え、全ての被災者の方々への安らからんことを願うものである。
悲しい、まことに悲しい平成23年のお盆ではあるが、亡き人をこの世に迎えて、少しでも元気で幸せになってもらいたいと祈りを込めた「お盆」にしていこうではありませんか!! |
|
合掌 |
|
|
|
|
|
|