『月刊ふぁみりぃ』 2011年11月19日(土)
落語版「昔話 桃太郎」から学んだこと パートⅠ |
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和尚さんのさわやか説法231
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
「むか〜し昔、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。…。」とのフレーズで始まる『昔話』と言えば、読者の皆さんは、どんな『昔話』を思い浮べるであろうか。
=花咲か爺さん=
でしょうか?
題名からにして、お爺さんが登場し、それを聞くだけで物語を想像できる有名な昔話である…。
=舌切り雀=も、このフレーズであり、
=鶴の恩返し=も
=かぐや姫=も
=かちかち山=も
そうであり、その出だしで始まる。
そして「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に」と続くと…。
言わずと知れた「桃太郎」の物語である。
この「桃太郎」の最初の語りのフレーズをモチーフに面白く、味わい深く昔話を語る『語り部』が「八戸童話会」の大御所、正部家種康先生と現会長の柾谷伸夫先生である。
私が、この童話会に入会した年、初めてお二人のこの語りを聞いた瞬間、そのオチに手を叩いて笑いころげ、そして唸ってしまった。
「むか〜し、昔。ある所におじいさんと、おばあさんがおりました。
おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。
そうしたら、川の上から、どんぶらこ、どんぶらこ〜と流れてくるものがありました。」と、ここまで一気に語り、次に子ども達に問いを投げかけるのだ。
「さて、何が流れてきたのでしょう…?」
すると、子どもらは一切に「もも〜」「桃〜」と答える。
「ブー、ちがいますよぉ〜!!」
「答えは、イモです。それも大きな薩摩芋!!」と先生が言うと、皆んなは笑いころげる。
そして物語は展開するのだ。大きな芋を見つけたおばあさんは、川から上げると家に持ち帰り、その芋を、ふかして食べようとする。
はじめはお爺さんに分けて食べようとするが、あんまり美味しいので全部食べてしまうのだ。
そこに、お爺さんが山から柴刈りを終えて帰って来る。
家に着くと、なんとお婆さんは土間に寝っころがって、大きな腹を抱えていた。
「どうしたんだ〜。おばあさん」と爺さんが聞くと、婆さん思わずオナラを「ブー」とたれてしまった。
そうしたら、爺さんまた鎌を持って山に戻り、柴を刈らずに、今度は「草刈った」。どっとはらい…。
と終わるのであった。
読者の皆さん!!両先生の語りの「オチ」が分かりますよね…。
もう一題は、最初の出だしは同じで、今度はタンスが流れてくるのである。
それも大層立派なタンスである。
川で洗濯していたお婆さんは、一人で上げられず、柴刈りをしていたお爺さんを呼び、二人で川岸に上げ、そして家に持ち帰るのであった。
そのタンスの中を開けると、なんとそれは眩いばかりの金襴緞子(きんらんどんす)の着物が何枚も入ってるではないか。
お爺さんは、それを慌てて数え始めた。
「一枚(いちまい)、二枚(にまい)、三枚(さんまい)」と…。すると!!お婆さんは、たしなめるのである。
「これは、きっと高貴な方がお召しになっていたお着物に違いない」
「これは、一枚二枚と数えるのではなく」
「丁重に、きちんと『お』をつけて数えなければならないのじゃ」
そこで爺さん、婆さんは声をそろえて数えるのであった。
「お一(いち)まぁい。お二枚(にまい)お三枚(さんまい)。お四枚(しまい)」
これで、今日のお話は「おしまい」「どっとはらい」…。
私は、このオチに息を飲んでしまっていた。
そしてまた、私はこの両先生の南部弁バージョンの語りを、ちゃっかりマネをして、その上、自分なりの持ち味を加えて、全国色々な講演先で語った。
特に関東以西の各地では、大ウケである。南部弁で語りながら、標準語に同時通訳してこのフレーズを語り始め、オチに入った時なんか、ある老和尚様なんかイスから、ころげ落ちて、それこそ「オチ」が着いたのであった。
—てなことで—
今月の初旬、九州へ出張をした。その帰り福岡→羽田間の一時間半の間、私は耳にヘッドホーンを着け、機内放送番組のジャンルから落語を選択し、それを聞いた。
それがなんと!!「落語版 桃太郎」だった。
落語家の当意即妙なる喋り口に「ウフッフ」と笑い声がもれ、そしてまたその内容に心の中で「ガッテン、合点」していると、隣の座席の方が、怪訝(けげん)そうに私を見た。
というのも、私は前々から『昔話』は何でおじいさんとおばあさんしか登場してこないんだろうと思っていた。
冒頭に述べたように有名な昔話は、このお二人であり、その物語に合わせて登場するのが、大体が「子ども」であり「若い娘」とか「若者」とか、小さな動物達である。
まず「お父さん」「お母さん」とかの中年層や中間層は無いのだ。あるとすれば、大概が悪者か敵役であった。
つまり善良なる好人物は「お年寄り」か「子ども」「若い人」であって、私のような「おっさん」「おばはん」は、およびではなかった。トホホッ(涙)
—それと—
「昔話 桃太郎」は、その善良なるお爺さんお婆さんに育てられて成長していき、そして「鬼ヶ島」に鬼退治に行き、鬼が集めた金銀財宝を持ち帰って、お爺さんお婆さんは大層喜んで、幸せになりました。と完結する。
ここに至って、私はいつも首をひねるのであった。
鬼って、まず全てが悪い人なの?って
善良な鬼だっているかもしれないし、仕事一途な人、勉強一途な人を「仕事の鬼」と言ったりもするし、人の為、世の為頑張ってる方は「心を鬼にして」なんても表現する。
あまつさえ「その鬼さんの所有する金銀財宝を、懲らしめて持ち帰るなんてのは、略奪行為そのものである。」なんて考えてしまう。
懲らしめるというのは暴力、腕力を振ってのことだ。人の物を奪うというのは、そういうことである。
これは現代においては許されることではない。昔話だって同じであろう。
きっと、もっと違う教えが根底にあるのではないだろうか?
お釈迦様の「法句経」という教典の中に、こういう一句がある。
すべてのひとは
幸福(たのしみ)をこのむ
されば
おのれ自らの
幸福(たのしみ)を求むる人
他人(ひと)を害(そこな)うことなくば
後世(のち)に幸福(たのしみ)をえん
(法句経132)
たぶん桃太郎は腕ずくで鬼を打ち負かしたのではないはずだ。
仏教的解釈で「桃太郎」を語るならば、全ての人の幸福の為に他人(ひと)を害(がい)することなく後(のち)の世の幸福を得んとする物語でなければならない。
実はそのことを「落語版桃太郎」から学ばさせられたのであった。
この「落語版」は来月の「さわやか説法」で語ることとしたい。
「昔話 桃太郎」が「落語版 桃太郎」となり、かつまた「仏教版 桃太郎」と解釈する、そら恐ろしい物語に展開しようとしている。乞うご期待にて
それでは皆さん。これにて今号は「お四枚(しまい)」の「どっとはれェー!!」 |
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合掌 |
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