曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2012年7月21日(土)
  =ジョブズの名言を謎解く=
 「名匠は 飾り棚(キャビネット)の裏に…」
  
和尚さんのさわやか説法237
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
「ここをタッチするとお家(うち)へ戻れますよ!!」
「何かあったり、ミスしたら、ホームへ戻ればいいのです!!」
 私は、この「お家(うち)」とか「ホーム」の意味が、からっきし分からなかった。
 恐る恐る私は聞いた。
「あのぉー。お家とかホームとかって、一体何ですか?」
「私は、自分の家にいつでも戻れますけど?」
—すると—
 目の前の店員さんは「ブハー」って吹き出すと、私の手の平にあった個体を取って、その画面の下方にある「家らしき姿」のマークをタッチした。
「ありゃぁー。最初の画面に戻りましたよ!!」
私は感嘆の声を上げた。
—そう—
 私は只今「スマホ」と悪戦苦闘中なのである。
 実は、私の今まで慣れ親しんできた「ケータイ電話」は、この七月で周波数の問題で、一切使用不可能となる。
 だから「早急に機種を取り替え変更しなさい」との督促により、そのショップを訪れた時の一コマが冒頭のシーンであった。
「スマートフォンとケータイ電話は、同じような機能であっても、まるっきり違います」
「スマホは、インターネットとの親和性が高く、つまりパソコンと同じなのです」
 店員さんは笑いながら私に言い聞かせる。
「はぁー」
 私は、ため息まじりに頷くしかなかった。
 何しろ、こちとらはアナログ世代の、しかも手書き、毛筆、鉛筆世代である。
 この「さわやか説法」の原稿だって、今、鉛筆手書きで書いている。
—でも—
 機種変更を余儀無くされた時、「絶対にスマホにしよう」と思った。
 いうなれば、「あこがれ」というか、ミーハー的願望のなせることであった。指タッチとかスライドをさせたかったのである。
—しかし—
 願望と現実は、天地懸隔、雲泥の差である。
 あの指タッチは繊細さを要求される。ちょっとした指先の動きを「スマホ」は敏感に受け、数字やら、文字やら、あまつさえ思ってもいない画面が突如として現れる。
 もう、「苦闘(くとう)」どころか、「苦悶(くもん)」「悶絶(もんぜつ)」の「絶頂(ぜっちょう)」の極(きわ)みであった。

 きっとスティーブ・ジョブズは、私にこう言うにちがいない。
「我慢さえできれば、うまくいったも同然なんだ。」(ジョブズの名言)と…。
 苦悶を楽しみ、忍耐力を持って、事に臨めということだ。
—急にジョブズが—
登場して、読者の方々はビックリされたことだろう。
—そう—
 私の鈍感指タッチで「スマホ画面」が変わったように、遅拙な筆タッチで「説法画面」を変換させてしまったのだ。

 本当は、私の「スマホ」体験のことより、今回の「さわやか説法」は、ジョブズの名言をテーマにして説法したかったのである。
 ジョブズとは、誰しもが聞いたことのある名前であり、知る人ぞ知る人物だ。
 iPod、iPhone、iPadと…。数々の革新的商品を現代に提供してきた「アップル社」のカリスマ創業者。それが「ジョブズ」だ。
 彼は昨年10月5日、56才の生涯を閉じたが、その間、数多くの功績と名言を残している。
 ジョブズの創造力、発想力、技術力の背景には、実は「禅」の思想があったのだ。
 若き頃、インドに旅して仏教に触れたという。
 1970年代にカリフォルニアの「禅センター」において修行し、曹洞宗の禅僧「乙川弘文老師(おとかわこうぶんろうし)」(旧姓 千野(ちの))と親交を深め、道元禅を学び、その実体験が「ジョブズの思想」を形成させたと言われている。
—てなことで—
「ジョブズの言葉」と「道元の言葉」とを対比させることによって、そのジョブズの名言の本質を謎解きしてみたい。

 今回、この「さわやか説法」でとりあげる「ジョブズ名言録」は
—これだ!!—
『名匠は、たとえ見えなくても飾り棚(キャビネット)の裏に、粗末な材木を使ったりはしない』
 ジョブズは細部にこだわった。
 ある時、彼はコンピューター内部の、外部には見えない基盤に、巧妙で視覚的に美しいデザインを求めた。
 そうしたら一人のデザイナーが、こう質問した。「いったい誰が中まで覗くんですか?」「誰も、そこまで見ませんよ!!」
 すると、ジョブズはこう答えた。
「僕が覗くのさ!!」と。
 彼にとっては、見えるところばかりではない。見えないところに美を求める。最善を尽くすことが彼のセンスであり、生き方なのだ。
 それが、先の「名匠は…」の言葉であり、後に名言と称賛されるものであった。
 禅の世界にあっては、いかなる修行も、修行でないものはない。
「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」全てが修行の当体であって、見える修行、見えない修行というものはない。
 つまり、見えるところも、見えないところも、最善、最上の「自己向上」を尽くす修行観なのだ。
 特に「見えないところで、見えない修行をせよ」と教える。
 道元禅師の「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」には
「人は必ず陰徳(いんとく)を修すべし。必ず冥加顕益(みょうがけんとく)ある也。」(四−八)
 つまり、人から見えないところである「陰」での修業をせよ。
 それが人として、修行者としての徳を積むことであると示される。
 他の人には見えないからこそ、私達の目に見えぬ神仏の助力、加護によって、利益(りやく)が顕(あら)われるというのだ。
 その陰徳の「徳」たるところに、真の修行底(生き方)があることを問うているのであった。

 この意味するところを、ジョブズは、自らに問い、言い聞かせているのではないか。
 ジョブズは、きっと自らを自らに「名匠たれ!!」と提言しているのであった。
 私は、先述した道元禅師の「冥加顕益」を目に見えぬ神仏の助力が顕われる。と言ったが、ジョブズにとっては、神仏の目ではなく、「大衆」つまり世界中の人々の「目に見えぬ眼」によって利益(りやく)が顕われる。ということではなかったか。
 その眼をジョブズは知っているのであり、だからこそ決して、飾り棚(キャビネット)の裏をおろそかにしてはならないことを禅の教えから学びとっていたのだ。

 このジョブズの名言、あるいは道元禅師の教えは、私達の日常生活また現代社会の商品開発や、顧客サービスも含めて、あらゆる場面において、言えることなのだ。
 どんな仕事だって、どんな勉強だって、小さな仕事も、陰に隠れた勉強も決しておろそかにしない。
「名匠は、たとえ見えなくても飾り棚(キャビネット)の裏に粗末な材木を使ったりはしない」
 まさに至言である。
 ジョブズは「名匠」であり、死しても「名匠」であり続ける。
—しかし—
 私、高山和尚は名匠になることは決してありえなく、いつも迷い、迷走する「迷匠(めいしょう)」であることは確かなことだ。トホッホッ(涙)
 はたまた只今、私は「スマホ」と苦悶迷勝負中(くもんめいしょうぶちゅう)である。(^-^)
  合掌  
※参考「スティーブ・ジョブズ名語録」桑原晃弥著
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