曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2016年3月19日
  にんげんだからこそ
  
和尚さんのさわやか説法270
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 本年正月号の「さわやか説法」で「猿も木から落ちる」との格言を、モチーフにして、「猿もから落ちず」されども「猿はから落ちる」との私の思いを書いた。
 この1月中、お寺での「お正月法話」や、いろいろな新年会の会合等の場所で、その思いの一端をお話しさせていただいた。
—つまり—
 木登り名人の「猿」が「木」から落ちる瞬間というのは、まさに「自己」という「気」が落ちた瞬間であり、「気」が抜け落ちた、その「瞬間」なのだ。
 普通的には、「どんな名人、達人であっても、たまには失敗する」との格言の意味であるが、
—どっこい—
 そんな意味ではなく、私達の人生における「教訓」であり、「強訓」なのだ。
 それは、気を落とし気を抜くことは、登りつめた「人生の木」からであり、「仕事の木」であれ、「勉強の木」であれ、成長した「自己の木」から「落ちる」ということなのではないか!!
 そんな私の思いを述べたかったからだ。
 いみじくも、そんな時、野球の「清原事件」あるいは「ベッキー事件」の問題が報道された。
 まさに、自己の「人生の木」から「気が落ちた」その瞬間があったのだ。
 それを自らが気が落ちていることを自覚せず、落ちていることに気づかず、あるいは、気が落ちたことを知らせまいと隠そうとする。だから上りつめた大きな「人生の木から」落ちたのであろう。

—しかし—
 猿も人間も、いつまでも「木」から落ちていない。「きっと、また上がり、登る」!!
 清原選手だって必ず上がってくるはずだ。ベッキーだって、きっと復帰してくる。私はそう信じている。
 私は、このモチーフを、教誨師としての任務でこの2月、青森刑務所を訪れ、罪を犯し服役している受刑者に話して、新年の坐禅講話の「教誨」とした。
「あなた達は、きっと犯罪を侵した時は、自分の気が落ちていたかもしれない。」
「でも、気を取り戻し木に、また上ることはできる。」
「決して、猿は、いつまでも木から落ちてはいないのだ」
—すると—
 何かを感じたのだろうか?
 みんなが、一斉に私を凝視したのだ。
 私は言った。
「みんなも、また木に登れる。」
「きっと上ぼれる」
「でも、また落ちるなよ!!」
 すると、
 みんなは、一斉に、「ワー」と笑った。

 鎌倉時代末期の歌人兼好法師が著わした「徒然草(つれづれぐさ)」がある。
 あの「つれづれなるままに日暮し、硯(すずり)に向かひて…」で始まる随筆集である。
 多分、皆さんも聞いたことのあるフレーズではなかろうか。
 その「徒然草」109段に
「高名(こうみょう)の木登(きのぼ)りと言(い)ひし男(おのこ) 人(ひと)をおきてて、高き木に登(のぼ)らせて 梢(こずえ)を切らせしに……」という教えがある。
 このところを現代語訳をするならば、
「名高い木登り名人と言われていた男が、人に指示して高い木に登らせ、小枝を切らせていた時のことだ。」
「その名人は、高い場所の作業している時は注意することはしなかったが、上ぼっている人が高いところから降りてきた時に初めて声をかけた」
 そこで、その人はこう言った。
「これぐらいの高さだったなら、すぐにでも飛び降りることが出来ますから大丈夫だよ」
「どうして、そんなことを注意するんですか?」と…。
 すると名人は言った。
「高いところだと自分で注意をするものだが、大丈夫だと思った時には、かえって気が抜けて、落ちるもんだよ」
 このことに兼好法師は、ハタッと膝を打ち納得されたというのであった。
—つまり—
 どんな木登り名人であったとしても、その「登り」に慣れきってしまっていると、「心」が落ちる時が必ずあるとの教えであり、かつ降りてきて安心した時には油断が生じ、かえって危険なものだよとの教えであるのだ。

 私達の人生においても、それは同様であろう。決して「気」を落すことなく心掛けたいものである。
—しかし—
 私なんかは、いつも気が落ち、抜けてばかりで「木」から落ちることは、ままにある。名人、達人ではないのである…(涙)

 「相田みつを」という詩人がおられる。
 その詩の中に
「つまづいたって
 いいじゃないか
 にんげんだもの 」 とある。
 それを今回の「さわやか説法」的に、借用し解釈すれば、こんなふうにもなるのではないか。
「木から落ちたって
 いいじゃないか
 にんげんだもの 」
「気が抜けたって
 いいじゃないか
 にんげんだもの 」
ってね。
 では、落ちたならどうするか?
「相田みつを」は、こうも言う。
「  その時 
   自分ならば
   どうする    」 と。
更に…。
「  ともかく
 具体的に動いて
   ごらん
 具体的に動けば
 具体的な答が
 出るから     」 と。

 私は思うのである。私達人間は、例え木から落ちたとしても、いつまでも落ちっぱなしではない。また上ることが出来るのだと。その時、自分ならばどう具体的に動くことかなのだ。
—そして—
「相田みつを」は、私達をこう言って励ましてくれている。
「ぐちをこぼしたって
 いいがな
 弱音を吐いたって
 いいがな
 人間だもの
 たまには涙を
 みせたって
 いいがな
 生きているんだ
 もの          」

 今月号の「さわやか説法」は、青森刑務所の体験から学んだことを通して、兼好法師やら相田みつを詩人を登場させてまで、私の思いを語ってしまった。
 猿だって木から落ちる。高名な木登りだって落ちる時もある。ましてや私達人間だって落ちることは、ままにある。
—でも—
 私達は、弱音を吐きながらも、涙をみせながらも、立ち上がり、本気で「気」を取り戻せばまた「木」に上ることが出来るのだということを。
「人間だもの」ではない、「人間だからこそ」出来るのではないか。
  合掌  
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