『月刊ふぁみりぃ』 2016年4月16日
「戦国武将 石田三成」が好きになっちゃった |
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和尚さんのさわやか説法271
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
本年正月号の「さわやか説法」の中で、私は豊臣秀吉と、少年「佐吉」との出合いである「三献の茶」の逸話を物語した。
「三献の茶」とは、長浜城築城の折、鷹狩りをしていた秀吉が城下の寺に立ち寄り、茶を所望した際に寺小姓であった佐吉が、茶を呈した故事による。
一杯目は大きめの茶碗にぬるめのお茶をたっぷりと、
二杯目は、やや熱めを半分ほどに。
そして、三杯目は、小さい茶碗に熱くて濃いお茶を少し、味わうほどに。
この三献の茶の出し方に、秀吉は、寺小姓の機に応じて敏なる、時に応じて敏なる才覚を見い出し召し抱えた。
この佐吉少年こそ、後の石田三成であった。
—そして—
私は、こうも書いた。それは、この「三献の茶」は、秀吉が若き藤吉郎時代の織田信長との「主君の草履をふところに入れて温めた」物語と共通性があるのではないかということであった。
—つまり—
秀吉は佐吉少年に、自分の若き時代とを重ね合わせ、佐吉に「秀吉の心」と「同じ心」があると確信し、「阿吽の呼吸」的な関係であったにちがいない。
だからこそ、石田三成を登用し、没年まで側近として重用したのであろう。
きっと三成自身も秀吉に対しては、一人の人間として、自己の心と「同じ心」を感じ、主君としてばかりではなく、父の如くに慕い、師に添うが如くに仕えたのではなかろうか。
「仏の世界」では、「師資相承(ししそうじょう)」という教えがある。
つまり、師匠の教えを、いや「心」そのものを、その弟子が受け嗣ぎ、心を伝えていく。
仏教において、また禅の世界においては、受け嗣ぐものは「仏の心」そのものだが、三成にとっては「豊臣」であり、「主君の心」なのだ。
そのことは、まさに三成の秀吉への「忠義」であり、武士としての「本懐(ほんかい)の心」であったのではと私は思った。
—ところが—
私は、今まで石田三成に対して、あまり良いイメージは持っていなかった。
頭は切れるが、小賢しい人物であり、虎の威を借る狐の如く、秀吉の威光を笠に着ての奸物の武将と思っていた。
一昨年放送のNHK大河ドラマの「軍師官兵衛」にあっては、岡田准一が演ずる官兵衛に相対して三成の田中圭は、まことに前述の如くであった。
—しかし—
私はこの「三献の茶」を「さわやか説法」するにあたり、三成の生涯を調べ、知るほどに、その悪しきイメージは払拭され、むしろ逆転してしまった。
むしろ好感のもてる武将に変じていたのだ。それは情に厚く、忠義に殉じた人物であったからだ。
こんなエピソードがある。
敦賀5万石の領主に「大谷吉継(おおたによしつぐ)」なる戦国武将がいる。
吉継は、頭脳明晰、闊達自在であり、武将の中にあってことのほか評価が高く、秀吉をして「吉継に百万の軍勢を与え、自らに軍配を指揮させてみたい」と言わせしめた智将である。
しかし、病に罹患し常に顔を白い頭巾でおおっており、誰もが近付きがたい。
ある諸候を集めた茶会の時だった。
その茶会では、武将同士が大きな茶碗に入った茶を回し飲みする。
そこで思わぬ事件が起きた。
なんと、その頭巾の下から、吉継の鼻水(膿?)が、したたたり落ちたのだ。
吉継は、ハタッと困った。茶をまわすことも出来ず、茫然自失となった時、同席していた三成が、それを見てとって、こう言った。
「吉継殿!!早く茶を回されよ。拙者、のどが渇きもうした」と。
三成は、その茶をとっさに手に取り、一気に飲み干した。
その機転によって、茶会の場は安堵の空気に包まれたという。
私は、この逸話を知った時、まさに冒頭の「三献の茶」と同じく、機に応じて敏なる、場に応じて敏なる三成の心であり、情深き思いであると感得した。
爾来、吉継は三成の盟友として、共に働き、共に友情を育み、ついにはあの関ヶ原の戦いにあって、西軍の将として殉じた。
決して、三成は人望に薄き武将でも、小賢しい悪奸物ではなかったのだ。
秀吉は、豊臣政権を維持する為に五大老、五奉行制をしいた。
五大老は、徳川家康を筆頭に、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、そして毛利輝元の名だたる大名であって、
五奉行とは、実務担当に精通した武将で、浅野長政、前田玄以、長束正家、増田長盛、そして石田三成であった。
秀吉は、選んだ五奉行を、こう評していたという。それは……。
「浅野長政は兄弟同様で会議には必要な人柄。前田玄以は人格確かな武将。長束正家は名判官。増田長盛は財政経理に詳しく。石田三成は進言する際に他の機嫌をうかがわず堂々と意見をする。」
この三成の物言いは情実も介さず、常に自らの信念に基づいての豊臣政権護持の為の行政運営の為のものであったにちがいない。
それは秀吉への忠義、豊臣安泰を願ってのことであろう。
しかしながら、この三成の性格に反感を持つ武将がいたことは事実であり、それが、関ヶ原の戦いで如実に表われた。
—かくして—
その三成の忠誠心は関ヶ原の戦いで敗れ、西軍の将として処刑された時にあっても、いささかも失われてなかった物語がある。
三成は、洛中を引き回わされ処刑場に臨む時、警護執行人に対して、このように言ったという。
「喉が渇いた。湯を所望したい」と…。
それに対して、警護人は「今、ここに湯はないが、柿ならばある。代わりにこの柿を食せよ」と。
すると三成は、
「柿は持病の痰毒である。いらぬわ!!」と断わった。
警護の者達はそれを聞いて嘲り笑い
「すぐ首を斬られる者が、毒断ちして何とする」と言い放った。
その時、三成は毅然として、
「大望を持つ者は、最後まで命を大事にするものだ。我が命は豊臣家に捧げた大切な命である。」
「故に、死の瞬間まで我が身を大事にするのじゃ!!」と……。
まさに、三成の真骨頂の生き様であり、忠義たる心の何物でもなかった。
—後日—
このことを聞いた徳川家康は、こう賞賛したとのことである。
「三成は、さすがに大将の道を知る者だ」
「人間の出来が違う」と…。
「将たる者は 将を知る」由縁であろう。
『正法眼蔵隨聞記』において道元禅師は、こう述べている。
「一日示(いちじつじ)に曰(いわ)く。仏法の為には身命を惜しむことなかれ。俗(ぞく)、猶(なお)、道を思へば、身命を捨て、忠節をつくす。これを忠臣とも賢者とも云う也。」
この意味たるは、仏法の為には、自己の命を惜しまず、身命を捨てる覚悟を持たなければならないとのことである。
それは世間の人でさえ、自己の生きる道を大切に思うなら、その道の為に命を惜しまず忠節を尽くす。
そういう人を忠臣とも、賢者ともいう。とのことであった。
—すなわち—
三成にとっての「道」とは忠にも義にも厚く「豊臣安泰」への道であり、「秀吉の心」の道でもあったのではないか。
だからこそ、豊臣家の為に尽くしぬくまで命を惜しみ、そして最後には秀吉の為に身命を惜しまない覚悟であった。
まさに、秀吉との出合いから一貫一徹を通しての没年までの秀吉への真の「不惜身命」の道だったのである。
私はいつしか、三成を好きになっていた。 |
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合掌 |
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