『月刊ふぁみりぃ』 2016年10月
「小さい秋みつけた」から気づかされたこと |
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和尚さんのさわやか説法275
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
「だぁれかさんが だぁれかさんが だぁれかさんが みーつけた ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みーつけた」
皆さんは、もう「小さい秋」を見つけましたか?
冒頭の一節は、皆さん御存知の「サトウハチロー」作詞の『小さい秋みつけた』である。
暑い夏が終り、少し秋めいてくると、私は、毎年きまってこの歌を口遊(くちずさ)んでいる。
この「誰かさん」とは、一体誰なんだろうか?
この童謡の三番までの詩を見てみると、作詞者サトウハチロー自身だということが分かる。
ここには、ハチロー自身が感じている「秋」が描写されているのだ。
それは、幼き頃の郷愁であり、特に父と離婚し去っていった母への思慕が叙情的に語られているという。
—でも—
私は、こう思っている。
それは、この「誰かさん」は、「小さい秋」を口遊み、歌う私達一人一人なんだと・・・。
私達が、何かしらの秋の気配を感じた時、「小さい秋」を見つけた時、あるいはこの歌が何気なく口をついて出た時、「私」という一人の人間が、その「誰かさん」になっているのだと・・・。
—つまり—
—自己の気づきなのである—
自分という「誰かさん」が感じた秋の気配、秋の音、秋の声を見つけた時の気づきが、ハチローにとっては「目かくし鬼さんへの手の音」であり、また、「呼んでる口笛」だったり「もずの声」だったのだ。
「めかくし鬼さん手のなる方へ 澄ましたお耳に かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声」
この詩の表現は、たぶんにハチローの幼き頃、近所の子ども達と遊んだ時の情景が、まさに「秋」の中に溶け込んでいたのではないか。
あるいは想像するに、「目隠し鬼さん」という自分が「手のなる音」に「はっ」と気づく。
また「澄ましたお耳」に、「かすかにしみた」小さな驚き「気づき」のことをいっているのかもしれない。即ち、それらを「見つけた」のである。
そのようなハチローの「小さな思い出」が「小さい秋」として大きく「心の中」に広がっていたのであろう。
私は、今月号の「さわやか説法」で何を皆さんに言いたいのか!!
—それは—
今、示したように、「気づき」ということである。私達は、日本の豊富な四季の中にいる。いろいろな事象が次から次へと移り変わっているのに、いつのまにか疎くなって、気づかないままに過ごしている。
だからこそ、そんな「小さい秋」という「小ささ」に気づく心の感性というか、いや余裕、あるいは「見る目」が必要なのではないだろうか。ということである。
—では—
この「小さい秋」とは「秋」のどの時点の頃なのであろうか。
初秋か? 中秋? 晩秋? どのあたりなんだろう?
初秋の候というと、お盆あたりから9月初旬だ。中秋は「仲秋」と表わし秋の真っ盛りで、9月10日〜10月10日だ。
晩秋は、文字通り秋の終りで11月末までである。
—ということで—
「小さい秋」は、私は「初秋」ではないかと思っていた。
夏の終りに、早々と秋の気配を、何かしらに見出す。例えば私なんぞは街路樹ではなく墓地にある「ナナカマド」の実が、少し色づいたことに、「小さい秋」を見つけたというようなことだ。
まあボチボチ見つけたのである。
でも、この視点は、一つの視点に過ぎない。
仲秋にだって、晩秋にだって「小さい秋」を見つけられることは可能だ。
—つまり—
秋の虫の鳴き声、紅葉(もみじ)の散る音や、風の音にだって、澄みきった空にだって、秋を感ずることが出来る。
即ち「小さい秋」とは、自分の心の「小さな気づき」そのものをいう自己の「小さな発見」「小さな心」を表現したものではなかろうか。
どうも、こちらの方が正解なような気がしてならない。
—では—
「小さい秋」に対しての対極にあるものは「大きい秋」である。
「大きい秋」となれば、まさに「秋」そのものの情景なのだ。
山々が赤く染まり、木枯らし風が吹く。また木々の葉が散っていく姿でもあろう。
秋の全ての事象が大きな「秋」だ。
「一葉落ちて天下の秋を知る」との格言がある。
これは「天下の秋」だからこそ、大きな秋である。
この格言の出展は、中国は漢の時代、『淮南子(えなんじ)』説山訓にある教えだ。
解釈すると、落葉するのが早い青桐の葉が、一枚落ちるのを見て、秋が来たことがわかるように、わずかな前兆を見て、将来起こることを予見する。との意味で、小さな現象から大きな現象を悟るとの例えであった。
まさに「小さい秋」で前述した如くの「気づき」なのだ。
この格言は、中国の禅の語録の中においても説示されている。
これは、「大きな秋」の例えそのものだった。
「問う。大ゆ嶺頭(だいゆれいとう)、提不起。如今(にょこん) 何としてか師の辺(あたり)に在りや」
「師、払子(ほっす)を挙す。」
「進みて云く、拈来(ねんらい)すれば宇宙に当たり、錦上、更に花を鋪(し)く。」
「師云く、一葉落ちて天下の秋を知る。」とある。
—少々、難しいです—
意訳すると、
「中国禅宗の六代目の慧能和尚が大ゆ嶺(だいゆれい)という山頂で示した仏法が 師のもとにあるとは どういうことか」と、ある僧が質問をしたのである。
それに対して、その師匠は、「払子(ほっす)」をすっくと立てて答えとした。
すると僧は進んで更に問うのだ。
「払子を拈じ振れば、宇宙に当たりますよ。錦上に花を敷くようなもんで余計なことしなくても仏法は現前にあるんじゃないですか。」と詰問したのだ。
すると師匠は、「いやいや、葉の到来は、一葉の落ちるをもってこそ知りうるものだ」と諭したのである。
このことは、僧が宇宙なんて表現できないものを仏法とした知ったかぶりの見解を正す為に、一葉の落ちる姿の中に、天下(宇宙)の真実があることを知りなさい。との教えであったのだ。
—まさに—
「壮大な秋」の例えである。
この師匠とは、中国は宋の時代、臨済宗の師家「圜悟克勤(えんごこくごん)」のことであった。
ここにおいても、師からの教えは、「気づき」なのである。
つまり自然の理(ことわり)を通しての禅における、悟り「気づき」であった。
—となれば—
サトウハチローの「小さい秋、見つけた」の詩は、「禅」の視点からすると、単なる「見つけた」ではなく、自然の理(ことわり)、あるいは「仏法の真実」のことを言い表わしているとも云えるのではないか。
今回の「さわやか説法」は、「小さい秋」をモチーフに、中国の格言や語録まで持ち出して「大言壮語」してしまいました。
お許し下さりたく存じます。
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合掌 |
参照 一、「ちいさい秋みつけた」 作詞サトウハチロー 作曲 中田喜直
一、大法輪(平成21年刊)「禅話百選」 |
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