曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2017年4月15日
   「身(み)から出(で)た錆(さび)」論考
  
和尚さんのさわやか説法280
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 先月、「デーリー東北」紙第一面の『天鐘』欄を読み、「えっー」と驚き、そして「本当に、そうなのかぁ〜?」と呟(つぶや)いていた。
—それは—
 今、社会問題ともなっている事件を取り上げて、そこに皆さんも知っている諺を引用してのコメントだった。
 私にとっては、その事件よりも諺の方にグッと引き寄せられたのである。

—その諺とは—
「身から出た錆」
これは、お釈迦様が説かれた『法句経』の中に、その出典があり、語源となっているとの指摘だった。
 私は、「天鐘」を読み終わると、部屋の書棚に脱兎の如くに向い、その経典を探し出すと、どこにあるかページをめくりまくった。

『法句経』(ほっくきょう)の「法句」とは、お釈迦様の真理(法)の言葉(句)といった意味であり、その真実の教えを短い詩節の形で、四二三節の韻文構成からなる経典が『法句経』と呼ばれるものである。
「あったぁー」
確かに『法句経』の中にあったのだ。

 錆(さび)は
 鉄(てつ)より生(しょう)ずれど
 その鉄(てつ)を
 きずつくるがごとく
 不浄(けがれ)ある行者(ひと)は
 おのれの
 業(わざ)により
 悪処(あしき)にみちびかれん

 二四〇節に「身から出た錆」の語源とされる釈尊の教えがあったのだ。

 そもそも「身から出た錆」という諺自体は、辞書的にはこのような意味である。
「刀の錆は刀身そのものから生じて刀身を腐らせることから、自分のした悪い行いのために自分自身が受ける苦しみや災禍」とある。
 つまり、「自らが悪い原因をつくって、悪い結果をまねくこと」や「自らが苦しい状況を作って、結果として苦しむこと」というものであった。

—そのことを—
 お釈迦様は
「不浄(けがれ)ある行者(ひと)は、おのれの業(わざ)により、悪処(あしき)に導かれん」と説かれる。
 つまり、不浄なる行いをする者は、自分自身の行いによって、悪き結末を招くことだと教え諭されるのだ。

 以上のことから、
 「身から出た錆」の諺は、このお釈迦様の教えによる『法句経』を語源としているという。
 私は、この事実を「天鐘」から示されて、本当にビックリしたしかつ改めて教えてもらい、私の学びとして感謝するばかりである。

—そこで—
 私はこの学びを基として、この語源を更に論考してみたくなった。
 これも私の身から出た錆かもしれない。
 私の「錆びた頭」を少し磨きたくなってしまったからだ。
 『法句経』のパーリ原文を邦訳された「友松円諦」師の現代語訳を繙(ひもと)くと、このように記述されていた。
 鉄から生じた錆が、鉄から出たものであるにもかかわらず、しかもその鉄をくい破るように、守るべき道徳を踏み越えた人の、自らの行為は、自らを不幸なる生活に導くものである」と・・・。
 ここには、先に述べた諺のような辞書的意味合いのような自身の悪行から悪い結果を招くということではなくして、お釈迦様の不浄(けがれ)とは、守るべき自己の道徳心や自律心であって、それを守らなかった自らの行為のことであり、その結果が、自らを不幸にする。とのことであったのだ。
—つまり—
 刀は、鉄は「私自身」の心のことであり、そこから生ずる錆もまた「私自身」の行為であり、結果なのだ。
 錆させるか、錆びさせないかは「私自身」の問題であるということである。

 では、錆させない、錆ないようにする為には、どうすればよいのであろうか?
 先述した『法句経二四〇節』の前節、二三九節に、

 工巧者(たくみ)の
 銀(しろがね)のさびを
 除くがごとく
 かしこき人は徐(おもむ)ろに
 一つ一つ
 刹那(せつな) 刹那(せつな)に
 おのれのけがれを
 のぞくべし
とある。
 友松円諦師の現代語訳には、こう書かれてあった。
 「鍛冶師の銀を精錬するように、賢者はいそぐことなく少しずつ、少しずつ、この瞬間、この瞬間、たえず自らのけがれをのぞくがいい」と・・・・・・。
 つまり、自己の道徳心や自律心を守らない不浄なる心を少しづつ、それも、絶えず、取り除くことが大切なのだとお釈迦様は説かれているとのことであった。
 錆は、そのままにしていると、だまっていても生じてくるからにして、自分自身で常に取り除くことを怠ってはいけないということなのだ。
—ここでまた—
 二四〇節の次の節、『法句経二四一節』を提示する。

 説呪者(まじないし)のけがれは
 呪(じゅ)を諳(そら)んぜざることなり
 家屋(いえ)のけがれは
 修理を怠ることなり
 容色(すがた)のけがれは
 懈怠(なおざり)より来たる
 修行者のけがれは
 放逸(ほういつ)に在り

 ここでいう「けがれ」とは「自己の行為」また「自己心」を例えたものであり「説呪者」「家屋」「容色」は、末尾に出てくる「修行者」を例えたものである。
 ここで言わんとしているのは、仏道に修行する者は懈怠という放逸によって、自らが錆ていくことを、お釈迦様が戒めているのであった。

—ここまで—
 『法句経』を基に論考して気付かされたことは、「身から出た錆」は我々仏道者に対しての訓誡であり教えではなかったかと受け取れるのである。
 刀鍛冶師や刀剣所有者が常に「刀身」を磨き、一瞬たりとも怠ることなく打粉(うちこ)し、細心の手入れをするのも、まさに「刀身」における「錆」という不浄(けがれ)を除去することにあるのではなかろうか。
 それが自己の「真なる心」と向きあう姿でもあるからだ。
 それはまさに、一つ一つ、刹那、刹那にの連続なのである。
 仏道者にとっては、このことが肝要であり、「一心」「一心」の「刹那」「刹那」の修行が自らの不浄心を「清浄心」ならしむるものであって、決して放逸してはならないのである。
 つまり、「身から出た錆」は「自らを放逸にするな」「放逸すれば錆る」という教えであったのだ。

 デーリー東北紙「天鐘」での諺引用の記事は、懈怠、放逸にふける私、高山和尚にとっては、まさに警鐘を打ち鳴らしてくれたものと感謝する次第である。
—だからこそ—
 私自身を顧ると、付着した錆は、なかなか落せないでいるし、次から次へと着きっぱなしで、もう「錆の肥満体」になっている。
 
 自分の錆は
 誰も取って
 くれないよなぁ
 錆は
 自分でしか
 落とせないよなぁ

 「相田みつを」的に錆を落せないでいる自分を実感している。トホッホッホ(涙)
                                                                 合掌
 参考 デーリー東北紙 「天鐘(29.3.18付)」
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