『月刊ふぁみりぃ』 2017年5月20日
「身から出た錆」実証体験 =身から出たワサビ= |
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和尚さんのさわやか説法281
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
先月号の「さわやか説法」で「身から出た錆」を書き上げた翌日のことだった。
私は、まさにその諺通りの結果を、身をもって体験した。
いや!!体験させられたのである。
原稿が上がると、私は心の中で叫んでいた。
「よぉ〜し!!今日は、これで飲めるぞぉー」
私は、この「さわやか説法」を脱稿した安堵感と、その苦しみの解放感から無性に喉に渇きを覚えていた。
「それに、今日から奥様は、弘前に帰ったことだし・・・・・・」
—そう—
奥様は実家の老母上様の元へ、久しぶりに帰省したのだった。
私は日頃は、家ではお酒を飲まない。
大抵の方々は、私を大酒飲みだと思っているらしく、「和尚さんは、家でいつも晩酌するんでしょ?」と聞く。
—しかし—
私は、会合とか懇親会での酒席においては、そりゃあ!!楽しく一生懸命飲むが、その代わり家にあっては、全然飲まないし、飲む気になれないのである。
奥様の前では、それこそ「借りてきた猫」の如く、まっことおとなしい。
—だもんで—
原稿書き上げの解放感と、更に奥様不在の解放感から・・・・・・。「よっしゃあー!!飲むぞぉー」となるのであった。
まず、お風呂屋さんに行き、大量の汗を流し、その帰り、コンビニに立ち寄っては、ビールにチューハイ。そして大好きな冷酒と氷を籠に入れ、ついでにタバコも買った。
—それより、どっかに飲みに行ったら?—
皆さんはそう言うかもしれない。
ウンニャ!!一人で好きなように、勝手気ままに飲みたいのである。
次々とプシュっとやっては、グイグイ飲み、流した汗の分、水分を体内にしみ渡らせる。
「プハー」喉が歓喜の音を上げる。その上、酒が入ると普段あまり吸わない煙草も吸いたくなってきた。
「プフー」鼻に紫煙の渦が巻き上がる。
仕上げは、冷酒に更に冷たい氷をかき回してのコップ酒だ。
奥様に内緒で飲む酒とタバコは格別であった。
TVをBS放送に切り換えると、なんと、「なつかしのフォークソング特集」だった。
その途端、若き青春時代にタイムスリップしての画面に向って「南こうせつ」や「吉田拓郎」らと一緒に歌う一人競演だ。
いや、はた目から見るとバカな男の「一人狂演」になっていた。
—次の日の朝—
二日酔い?
ちがいますよ!!
いたって元気!!すっきり、爽やかでしたよ。
ところが、お昼頃から、なんとなく倦怠感に襲われてきた。
熱を計ると38度を超えていた。
「ありゃぁー。風邪でも引いたかなぁ?」
「まぁー。少し休んでりゃ。そのうち直るさ」
でも、あにはからんや熱は上昇の一途をたどっていった。
夕方の5時、熱は40度手前の39.8度になっていた。
熱ばかりか、身体がきしむように痛くなってきた。
「こりゃあー。病院に行かなくては・・・」
到着するや、病状を訴え、せつなそうに、待合室で座っていると、看護師さんが、救急用ベットに案内して休ませてくれた。
—その後—
いろいろな検査をし、肺炎かも?の病状で点滴治療となった。
私は、その点滴が一滴一滴落ちるのを見ながら、つくづく、こう思った。
「これが、本当の『身から出た錆』だよなぁ」トホッホッホ。
冷えた酒をガブガブ飲み、タバコをプカプカ吸いまくり、おまけに「一人狂演」たる「錆」を自らが作っていたのだ。
その時、私は「さわやか説法」で書いていた『法句経』の一節が、思わず口をついて出た。
不浄(けがれ)ある行者(ひと)は
おのれの
業(わざ)により
悪処(あしき)にみちびかれん
まさに「自らが悪い原因をつくって 悪い結果をまねいた」のであり、悪処(あしき)病いの床で、悪しき熱にうなされていた。
点滴後、先生からの「後は、自宅で静養しなさい」の指示に従い、またお寺の布団にもぐったはいいが、熱は一向に下がらない。
—うなされながら—
私は高熱の中で夢を見ることになる。
悪夢なのであろうか。
それは、「回転寿し」の夢だった。
寿しがグルグルと回転し、その「寿し」からは、みんなある物がはみ出ていたのだ。
それは、なんと「ワサビ」だったのだ。
私は、その光景に悶え苦しみ叫んでいた。
「身から出た ワ サ ビ じゃあー 」
((注)今、回転寿し屋さんではワサビは入っていません)
—それと同時に—
あろうことか、「豊臣秀吉」と茶道を大成させた「千利休」が登場してきて、利休が秀吉に言っているのである。
「これが茶道の・・・・・・」
「身から出たワビ、サビなのです」
「身から出たワビ、サビ」!!
「身から出たワビ、サビ」!!
このフレーズが耳元で何度もガンガン響き、秀吉と利休が消えては出て、出ては消えるのである。
もう。ヒッチャカ、メッチャカ!!
その上、何の脈絡もない「寿し」と「茶碗」が、そして「ワサビ」と、「ワビ、サビ」が夢の中でグルグルと回転しているのであった。
—そう—
私は「無明(むみょう)」の闇の中で悶えていた。
それは夜の明けることの無い「無明の夢」だった。
お釈迦様は『法句経』の中で、こうも説かれている。
これらのけがれより
さらに多きけがれあり
無明(まよい)こそは
最大のけがれなり
比丘等(びくら)よ
このけがれをすてて
無垢(むく)の人となるべし
これは「身から出た錆」の語源となる「法句経二四〇」節の
錆は
鉄より生ずれど
その鉄を
きずつくるがごとく
不浄(けがれ)ある行者(ひと)は
おのれの
業(わざ)により
悪処(あしき)にみちびかれん
の後に出てくる「二四三」節なのである。
つまり、「不浄(けがれ)」とは、「無明(まよい)」こそであるという。
私は、奥様のいないことを幸(さいわ)いとして、明け方まで「無明(まよい)の酒」をガブ飲みし、結果として「無明(まよい)の夢」に沈潜させられた。
お釈迦様は、比丘(びく)である私、高山和尚が腹立たしかったにちがいない。
—そして—
こう言いたかったのであろう。
「無垢の人となるべし」と・・・。
私は、今回の高熱と前晩の悪業(あくぎょう)を通して、なんと錆の多い、垢の多い比丘(和尚)であったことを、まざまざと実感した。
まさに「身から出たワサビ」のほどの辛(から)さを味わったのである。
三日間の闘病を経てようよう熱が元に戻った日に奥様が帰ってきた。
私は、これまでのいきさつを話し、私の「身から出た錆」を心から詫びた。
—これが本当の—
「身から出た錆」ならぬ「身から出た詫び」であった。
トッホッホ(涙)
その瞬間、私は気づくことがあった。
それは、「悪い自分の行為は自ら悪い結果を招く」との「身から出た錆」たる諺の本質的な意味は、だからこそ、「無垢の人となれ」という教えではないかと・・・・・・。
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合掌 |
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