曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2017年6月17日
 「忖度(そんたく)」の本来的意味を考える
  
和尚さんのさわやか説法282
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 「忖度」(そんたく)この言葉が、「森友学園」関連問題に端を発して日本中の国民が知ることとなった。
 今や平成29年の流行語大賞にトップノミネートされることは間違いなさそうだと、誰もが予測している。

 「忖度」という言葉は普段、私達にはあまりおなじみのない語句であり、日常的には使用されてこなかった。
 だからこそTVのクイズ番組などで、
「そんたく」と出題されると漢字で書くことは出来ないし、また「忖度」を「そんたく」と読めない難解漢字だったのである。

—ところが—
 今や、誰でも答えることが出来るようにまで知られることになった。
 その「忖度」の意味を、私達は当問題が日夜放送されることによって、このように解釈してしまった。
—それは—
「権力者や政治家、あるいは上役の意向を察して、その意向に添うように推しはかる」ということである。
—はたして—
「忖度」とは、このような意味であったのか?と私は違和感を覚えていた。

 『広辞苑』辞書には「忖」も「度」も、はかるの意。他人の心中(しんちゅう)をおしはかること。推察。例文として「相手の気持ちを忖度する」とある。
 つまり、相手の言葉や行動を通して、その心の中や、気持を自分に置き換えて推し量ることであり、相手を思う気遣いや思いやりのことを表す意味なのだ。
 いわゆる相手の気持を尊重しての「和合」「協調」の精神、そしてその「心」だった。

 —こんなことが—
あった。若き本山修行時代のことである。
 上役たる老師様が、我々修行僧らに訓示した時のことだ。
「御山での僧堂生活においては、お互いそれぞれに自己弁道に精進し、自己の仏道修行に励まなければならない。」
「しかし自分勝手な修行や、自分だけが良いと云う様な我執の修行をしてはならないのじゃ」

「自己弁道というのは他の修行者と共に切磋琢磨し、お互いの心を『忖度』し合っての乳水和合(にゅうすいわごう)の修行なのじゃ!!」と・・・。
 私は、この時初めて「忖度」という言葉を知り、その意味が叩き込まれていた。
 老師は重ねて、こう述べられた。
「忖度の『忖(そん)』とは、立心偏(りっしんべん)に寸(すん)と書き、『度(たく)』は温度の度(ど)と書いて、どちらも「はかる」という意味なのじゃ」
「つまりじゃな!!忖(そん)とは心に寸(すん)だから、ちょっとした心遣いであり度は、程度であり、ほどほどにという心遣いということだ」
「だから、あなた達修行僧は、お互いに、ちょっとした心配(こころくば)り、ほどほどなる思いやりの心をもっての同業同修(どうぎょうどうしゅう)の仏道修行なんだぞ」
 私たちは、その老師様の温かき訓示に身を震わせ心の奥底から頷いていた。

—どうであろうか—
 ここには、先述した問題のような「権力者の意向を察して、それに添うように推し量る」との解釈ではなかったことが理解できるのではないか。
—だからこそ—
 私は、老師様の訓示が若き時代にインプットされているからこそ違和感を覚えたのであった。

—てなことで—
 私は「森友学園」問題での当事者や中央官僚が使用した「忖度」には、本来的意味合いとしての尊重、協調たる互いを推し量る心を拡大化して相手の意向ばかりを重んじての、むしろ「へつらい」や「おもねる」「媚びる」という感情移入が推し量られたことにあると私は、そう「忖度」している。
—ここが—
ポイントなのである。

—そこで—
 この「忖度」の出典語源は、どこにあるのか訊ねてみることにしたい。
 この言葉は、中国最古の詩集で紀元前九年〜七世紀、孔子が編纂されたとする『詩経』(しきょう)の中にあるという。

 奕奕寝廟 君子作之
 秩秩大猷 聖人莫之
 他人有心 予忖度
 躍躍毚兔 遇犬獲之 

ここに記載されているが、難しいです・・・。(涙)
書き下し文では、
「奕々(えきえき)たる寝廟(しんびょう) 君子(くんし)これを作(つく)る。
 秩々(ちつちつ)たる大猷(だいゆう) 聖人(せいじん)これを莫(はか)る。
 他の人に心あり 予(われ)これを忖度(そんたく)す。
 躍々(てきてき)たる毚兎(ざんと) 犬に遇(あ)って之を獲(と)らう。」
となるが、これを私なりに現代文に意訳してみるならば、こう解釈できるのではないか。
「光り輝く御寝殿は、君子がこれを作った。」
「秩序だった大道は、これを聖人が莫(な)した。」
「他の人々には、いろいろな心があるもんだ。それを予(われ)は忖度し、推し量るのである。」
「それは、あたかもピョンピョン跳ねるすばしっこい兎は、犬に出合って捕獲されてしまうようなものだ」
 ここで云う「予(われ)」との主語は誰を指すのであろう。
 前文に君子、聖人の表現してしていることから、この予(われ)が聖人、君子とするならば、他の人の心とは「民(たみ)の心」と読み取ることが出来る。
 すなわち、聖人君子たるものは、民のいろいろな心を忖度し、推し量るのである。
 それは、あたかも、すばしっこい兎の心を猟犬が捕獲するようにきちんと捕えるようなものだ。
ということになるのではないだろうか。
 あるいは、予(われ)を孔子とするならば、他の人に、よこしまな邪心があったとしても私は、それをきちんと忖度して、あたかも讒言(ざんげん)する人の心を正し、それは、犬が兎を捕えるように、把握するようなものだ。とも解釈できるのではないか。

—つまり—
 聖人や君子たる人は、「民の心」や、あるいは「邪心」ある者の、その心を推し量って、良き正道に導くことの道理を説いているのであった。
 ということは、「忖度」とは、王道たる「心」のあり方の教えを指すものであり、権力者、政治家、上役たる者は、かえって人々の心を推し量り、思いやらねばならないとの教えであったのだ。
 ここにおいて、部下の者が上役に対して、おもねり推し量るとの意味ではないことが皆さんにも、お分かりであろう。

—まさに—
 今般の「森友学園」関連問題で惹起(じゃっき)した「忖度」の発言は、本来の意味からすれば、まるっきり逆の論理であり、官僚社会的解釈ではなかったか。と私は思っている。
 「忖度」とは、古来より人々を思い、相手を尊重し思いやりのあふれる言葉であるが、近年、その解釈、用法が変節してきたように思えてならない。
                                                                 合掌
 
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