『月刊ふぁみりぃ』 2017年7月15日
「忖度(そんたく)」の本来的意味を考える パートⅡ
=「諂曲(てんごく)と「忖度(そんたく)」= |
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和尚さんのさわやか説法283
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
先月号の「さわやか説法」で、この春から俄かにクローズアップされた言葉。
「忖度」(そんたく)の本来的意味を、その語源とする古代中国の孔子(こうし)が編纂された『詩経』の中にある漢詩を基として論考してみた。
—そしたらである—
いろいろな方々から多くの反響の声が寄せられたり、また至る所でこの「忖度」の語源の話をさせていただいた。
それだけ今、世間の大きな関心が示されているのであろう。
この語源を紐解いて分かったことは、聖人や君子たる者は、他の人々や民の心を、あるいは讒言(ざんげん)したりする者の「邪心」を推し量って、良き正道に導くことの道理を説いていることであった。
—つまり—
権力者や上役たる者は、かえって人々や部下の心を推し量り、「思いを致す」との教えであって、決して、部下の方から上役に対して心配(こころくば)りをするという意味ではなかったのである。
いみじくも本稿を書き上げている中で、東京都議会選挙があった。
開票と同時に、「都民ファーストの会」の圧勝が速報され、なんと同会からの公認候補のうち、たった一人を除いて99%の立候補者が当選したというのである。
私は、この結果を受けて、「忖度」を基準として考えるならば、この「都民ファーストの会」議員は、これからが「正念場」であるとの強い思いを抱いた。
—何故ならば—
小池都知事の心を「忖度」するか、はたまた都民の心を「忖度」するかが「都民ファーストの会」新人議員にとって問われることになるからである。
だからこそ、どちらを「忖度ファースト」にするか。
彼らにとっては、まさに「正念場」なのである。
その「正しき念」の行末は、二、三年後、いやもっと早い時期に如実になるかも?
もしかして都知事の方ばかりを「ファースト」化した「忖度」をしていると、きっと、いろいろな問題や、議員としての資質や行動の諸問題が露呈してくるにちがいない。
本来的意味の「忖度」は、前述してきた如く、都民だけでなく、人々の心全体への「ファースト」なのである。
—では—
何故に、私達は人々ではなく、上の方にばかり、「忖度」したくなるのであろうか。
そこには、上役の心を推し量るということで、相手の意向を重んじての、むしろ「へつらい」や「おもねる」という感情移入が推し量られているからである。
—すなわち—
官僚の皆さんも分かっているのである。自分たちが上の方々に対して、へつらい、おもねいていることが・・・・・・。
この「おもねり」「へつらい」を仏教用語では「諂曲」(てんごく)というのであった。
「諂曲」(てんごく)とは、その字の如く、「諂(へつ)らって自分の心を曲げる」ことである。
自分の本意とは違って、相手の意向に添うことによって、自己心を曲げてしまうことなのだ。
だからこそ、官僚の皆さんは、その「諂曲」を「忖度」という素晴らしい言葉を以てして覆い隠してしまったことから、近年その本来的意味が変節してしまったのではないか。
お釈迦様が、齢八十才で臨終を迎えるにあたり後世の弟子達に遺(のこ)した『仏垂般涅槃略説教誡経』(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)いわゆる『仏遺教経』(ぶつゆいきょうぎょう)という遺言的経典がある。
この一節に
「汝等比丘(なんだちびく) 諂曲(てんごく)の心(しん)は道(どう)と相違(そうい)す。是(こ)の故(ゆえ)に応(まさ)に其(そ)の心(しん)を質直(しつじき)にすべし、当(まさ)に知(し)るべし諂曲(てんごく)は但(ただ) 欺誑(ごおう)と為(な)すことを・・・。」
とある。
これを、そのまま意訳するならば、
「汝ら比丘(びく)よ!!諂(へつら)い曲(ま)げる あなた達の心は、本来の道(正道、仏道)とは違いますよ!!」
「だからね。その自分の心を素直に、正直にしなければいけないよ!!」
「まさに知りなさい!!諂曲の心の、その本質は人々を欺(あざむ)き、だますことなんだよ!!」
—そして—
更に続けられる。「入道(にゅうどう)の人(ひと)は則(すなわ)ちこの処(ことわり)なし。」
「正しき仏道に入ってる人は、このようなことがない!!」
「是(こ)の故(ゆえ)に汝等(なんだち)よろしく端心(たんしん)にして質直(しつじき)を以(もっ)て本(もと)と為(な)すべし」
「このようなことで、心から『質直』たる行いを自己の本心としなければならないよ!!」とお釈迦様は最後の力を振り絞って、後世の私達に説示されたのであった。
お釈迦様は「諂らい」「おもねる」心は、人を欺き、だますことなんだ。と戒められ、だから「質直」を自己の本心とせよ!!と遺誡されたのだ。
—そして更に説かれる—
次の段で、お釈迦様は、このように説く
「汝等比丘(なんだちびく) 当(まさ)に知(し)るべし 多欲(たよく)の人(ひと)は利(り)を求(もと)むること多(おお)きが故(ゆえ)に苦悩(くのう)もまた多(おお)し」と・・・。
要するに「諂らい」「おもねる」「媚びる」という心は、実は自分の「我欲」(がよく)が根元的にあると示される。
自分を利する為に、自分の心を曲げて、相手の意向を推し量るということは、究極的に自分のおぼえよろしきや、あるいは何かしらの「求めるもの」があっての「多欲」が存在することだからだ。
故に苦悩もまた多いというのであった。
—であるからにして—
お釈迦様は、この人間の自我を利する「欲」を戒めるのであった。
この「諂曲」たる「多欲」は、実は官僚社会ばかりではない。実は、私達一般の社会にも、私達自身の心の中にあるのだ。
和尚としての私なんか、諂曲の極みでありまする。
もう忖度のしっぱなしです。トホッホッホ(涙)
—皆さんも—
手を心に当てて思い浮かべてみたらいかがでしょうか?。思い当たることが、いっぱいありませんか?
—てなことで—
いかに、この諂曲たる欲を制止するか、いかに調えるかが、「忖度」の本来的意味とするところではないだろうか。
今、「忖度」の本質が問われている。
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合掌 |
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