『月刊ふぁみりぃ』 2017年8月13日
お盆特集号 「昔日の灯籠流し風景」 |
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和尚さんのさわやか説法284
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
今年も暑くて熱いお盆の時節がやってきた。
八戸市内の各寺院においては「七日盆」と称せられるお盆の準備日から始まり、迎火を焚く十三日、そして送火の十六日までの本番四日間と続く。
更には、二十日に開催される「灯籠流し」を以てお盆期間が終了するのであった。
この日は「二十日盆(はつかぼん)」と称されている。
まさに、お寺にとっては長くて暑さひとしおの時節でもあるのだ。
この二十日盆とは、東北地方で行なわれる盆行事であって、古くはこの日に門火を焚き、握り飯または餅を焼いて食べることによって病気をしないという風習があるそうだ。
更には、「わら人形」を焼いて精霊を「あの世」に送るとの意味が込められているとのことである。
—そのことからか?—
この日に八戸の母なる川「新井田川」においては「灯籠流し」の行事が古くから行なわれてきた。
八戸の「郷土かるた」では、「朝もやに 響くいさばの 背負いかご」「三社大祭 太鼓の響き 勇ましく」等々に続き、「とうろうながしの 新井田川」と歌われており、夏の終りを告げる八戸の風物詩ともなっている。
—皆さん!!—
今月の「灯籠流し」は必見ものですよ!!
今だかつてない「灯籠流し」になるかもしれません。
それは、「八戸花火大会」が同日同時刻に開催されるからだ。
花火と灯籠流しが同時に楽しめそうである。
二十日が日曜日と重なることによって偶然にも一緒になったのだ。
新井田川河畔からは花火が遠くに見える絶好の場所でもあり、どうぞ、この千載一遇の機会に足を運んでみてはいかがであろうか!!
全国的に「灯籠流し」は各地で行なわれている盆行事ではあるが、花火大会を同日開催しているところも多い。
例えば仙台の広瀬川での「灯籠流し」。福井の九頭竜川での「永平寺大灯籠流し」。
あるいは京都府宮津湾や、静岡の浜名湖かんざんじ温泉もそうであるという。
花火もまた、一つの精霊送りの盆行事でもあるのだ。
—ということで—
今月の「さわやか説法」では、新井田川での「灯籠流し」の起源から現在までの「流れ」を私の子ども時代の思い出を取り混えながら語ってみたい。
そもそも、そのルーツは大正時代であり、新井田川河口の三ヶ寺、つまり海安寺、十王院、常現寺が合同で、それぞれの檀家先祖の「送り盆」行事として行なわれたという。
そこに八中生(現八戸高校生)が「湊学友会」なるものを組織し校外自治活動を展開し、その一つが、先輩物故者の供養として、この灯籠流しに参画したのであった。
その消息について、八高の大先輩古老、音喜多勝先生は、昔日こう語っていた。「この組織は発祥の地が小中野であり、私の祖父(八中三回)(明治32年入学)政治(まさじ)らが創立し、小中野、湊、鮫方面、いわゆる浜通りの八中生を主体にしていたので湊学友会と呼ばれていた。(中略)湊学友会の諸行事の中でも、目玉ともいうべきものが、この灯籠流しであった。
炎天下に常現寺を本拠にして、物故者先輩の供養大灯籠を製作するのである。・・・・・・」と。
その後、昭和時代に入ると、この湊学友会ばかりではなく、八戸水産高校水洋会、また八戸商業高校浜通りOB会も参画し、各校の先輩供養大灯籠と共に、伴走船が集結し、大太鼓も積み込み、校歌、応援歌を互いに競い合っての青春鼓舞を披露するのであった。
音喜多氏は、このあたりの様子を更に語る。「鈴なりの新旧湊橋上の観衆の中から、『声が低い!声を出せ!水産、八商、八中負けるな!』と外野からも応援があり、上下の蛮声が暗い川面に反響し、精霊の供養変じて、修羅場ともなる・・・・・・」と。
—そりゃあぁ—
私の子ども時代は、喧騒の中での灯籠流しだった。そしてそれは、私自身も八高生として卒業する昭和42年の夏まで続くのであった。
新井田川は、その当時は現代のように護岸や堤防が整備されてはいなく、主なる会場は、新旧二本の湊橋付近であった。(現在は諏訪神社前の緑地公園河畔)
子どもの頃、常現寺の境内には、三校の大灯籠が並び、高校生らによって組み立てられていた。
そして、檀家供養の「小灯籠」は、本堂にて受付するや各檀家さんの名前を書き入れる。
すると、手伝いのおばさん達と一緒に私達子どもらも動員され、それらを一個一個作り上げるのであった。
その数や、何百個だったろうか。
子ども目線から見ると、それはそれはうず高く積まれていたように記憶している。
灯籠流しの当日、その小灯籠を、現代ならばさしずめビジネスホテルの朝食で食べ終った後に置く食器棚のような作りの大きな三段重ねの長方形の木製棚に並べ置くのであった。
一段30〜40個を積み三段で合計約百個が一台の容量だ。
それを一艘に一台ずつを艪を漕ぐ「平田舟」というそこの平らな和船に乗せて川岸から出発するのである。
一ヶ寺からは、その当時六〜八隻が漕ぎ出す。つまり、一ヶ寺あたり600〜800個の灯籠だ。
であるからにして、三ヶ寺合計、二十数艘が川面に出揃い、一斉に灯籠に点されると、それはそれは状観だった。
それから今度は、一個一個が船頭さんらの手によって川面に放流されると、まさにクライマックスともなり、約二千個の灯籠がユラリユラリと川下に向かって流れていく。
すると、その間隙を縫って八高、八水、八商の大型灯籠舟や太鼓や学生達を乗せた伴走船が、あっちへこっちへと移動して雄叫び上げるものだから、ますますそのボルテージは高まるのであった。
—それと共に—
和尚さん達を乗せた「読経船」が、その流れる灯籠の速度に合わせて進む。
父でもある常現寺の高山不言住職は、読経太鼓を打ち、『般若心経』を唱える。今のようにマイク、スピーカー設備なんぞはない。地声である。
その朗々たる御経の声が川面に響き渡っていた。
—しかし—
その読経も掻き消される場面もあった。
その状景をまた音喜多氏は、かく述べる。
「片や屋形船を仕立てて小中野見番の綺麗どころが浴衣姿も涼しげに、お囃子に合わせて三味線、太鼓に艶やかな踊りを披露するなど硬軟の取り合わせが妙であった」
「先祖累代の霊位もこの賑やかな供養をきっと喜んでくれたことと思っている」
—このような中で—
人々は掌を合わせ、静かに流れる幾千の灯籠が川下に消えいくまで見送り偲んで祈り続けているのであった。
—しかし—
往時の灯籠流しの「灯籠」は放流されたままで回収されることはなかった。
このことから、八戸市の港湾整備の拡充、下流に係留する漁船への対応、また放流することによって生じた河川環境の問題が提起されたのである。
結果、長い歴史の「灯籠流し」は、やむなく中断することを余儀無くされた。
時に昭和42年の夏であった。その時、私は八高三年生。
奇なる哉。のちに和尚となる私自身が所属する私達湊学友会生の時代で終止符が打たれたのである。
トホッホッホ(涙)
—この続きは—
次号か、あるいは来年のお盆特集号にて語ることに・・・。
復活「新井田川流灯会」の発端からの歴史とエピソードを・・・。
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合掌 |
※引用参考文献
「湊学友会と灯篭流し」 音喜多 勝 氏著 デーリー東北 昭和60年8月19日発行 |
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