曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2017年9月16日
 秋なのに、まだ灯籠流しの話なの? =復活 新井田川流灯会物語=
  
和尚さんのさわやか説法285
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 秋彼岸の時節に、今月号もまた「灯籠流し」の話である。
 前月号においては、「昔日の灯籠流し風景」と題して、私の幼年時代の脳裡に刻まれた思い出と共に、音喜多勝先生の脳裡に深く残る「湊学友会」と灯籠流しの風景を交錯させながら語ったところで終ってしまった。

—てなことで—
 今月号は、その続きである。冒頭の如く秋彼岸なのに、お許しをいただきたい。
 前号の末尾において、昔日の「灯籠流し」は昭和42年。放流されたままの灯籠の河川環境の問題が指摘され、やむなく中止となったことを述べた。
—そして、その時—
 私は八高三年生(二十回生)。「湊学友会」最後の活動に終止符を打った当事者であった。

 今年の灯籠流しが開催される前の月、七月のことであった。
 夕方、携帯電話が鳴った。出てみると私と同じような坊主頭の某県議からだった。
 その県議もまた、私と同じ八高二十回生であり、湊学友会同期でもある。
「今ね、小中野の焼き肉屋で後輩の二十一回生の連中と飲んでいるんだよ」
「よかったら、ちょっと来ないか」
とのお誘いである。
 早速、そこに行き小部屋を開けると、そこは談論風発。激論突発。議論百出。百家争鳴。モウモウたる焼肉の煙がやけに眼にしみた。
 私もその争鳴の渦中に入るや、急ピッチで杯をあおり焼き肉を突っつき始めた。

—そしたらである—
 その二十一回生の後輩であり、湊学友会の後輩である今や青森県私大教育界の重鎮となった方が突然、堰(せき)を切るかのように、某県議と私に向かって詰問するのだ。
「あんた達よ!!二十回生はよ!!湊学友会灯籠流し最後の年に、これで終わりだとか言って、観光バスを仕立てて、十和田湖に遊びに行ったりして・・・・・・」(怒)
「それも、女の子達をいっぱい乗せてよ!!」
 その声を聞いた途端、私と某県議は、目を見合わせ、互いに息もハシも止まった。
—その瞬間—
 私は、50年前の十八才の時の、その状景が時を超えてフラッシュバックした。
「そうだ!!あの時、灯籠流しの残金を、どうするかで話し合い」
「どうせ、今年で終わりなんだから、これを使い切ってしまえ!!」との結論に至り、
「だったなら、秋の十和田湖遊覧に行くべ!!」となり。
「よおし。じゃあ、観光バスで皆んなで繰り出そう。女の子達も誘ってよぉー」
「ガハッハッハ」となったのである。
 そりゃあー。集まった。何たって、無料(ただ)で遊びに行けるのだ。
 私も某県議も湖畔の「乙女の像」の前で、八高青春の乙女達と戯れたかった・・・・・・。
 結果。湊学友会の残金はスッカラカンになった。
 それまで毎年、次の灯籠流し活動の為に繰越し引き継いでいたものを「からっぽ」にしてしまい、私達は卒業したのであった。

 私は、その重鎮の歯に衣(きぬ)着せぬ言葉に冷水を浴びせられる思いで聞き入るしかなく、代わりに冷酒をあおり浴びるだけだった。トホッホッホ(汗)

 卒業後、私は駒大仏教学部に進み、また本山修行を終えて八戸に帰ってきたのは、十二年後の昭和54年夏であった。
 その時、最も驚き、おったまげたのは、「灯籠流し」が復活していたことだった。
 湊学友会のOB大先輩達によって、消えた灯が再び新井田川に甦っていたという事実だ。
 アホな後輩が、湊学友会の活動に、終止符を打ったというのに、大先輩方は、まさに0(ゼロ)からの出発で、地域活性化と夏の情趣を、そして先祖崇拝の美風を伝え継いでいきたいとの強い思いから復活させたのである。
 時に、昭和52年のことだ。

 当時の模様が、このように新聞に掲載されている。
「十年ぶりに灯籠流し—八戸・新井田川—」
「先祖の霊慰める 小雨の中、一万人が見物」との見出しで。
「夏の風物詩、新井田川流灯会は42年夏を最後に途絶えていたが、祖先の霊を慰めるとともに、小中野・湊地区の振興を図ろうと旧制八中・八高OBで結成している湊学友会(古川誠会長)の呼びかけで今年から復活したもの」
「流灯会全盛時代は、河口まで流したというが、今は河川の汚染防止のため一本のロープにつながれ、ボートに引かれているのも、時の流れ」
と、その意義と、放流方法の変化工夫が述べられている。

—つまり—
 十年前の反省のもとに放流しっぱなしではなく責任を持って回収し、河川環境に配慮した万全の対策を確立したこと。また従来の寺院主催ではなく、新たなる「流灯会」を組織し、地域有志による地域の為の、地域住民への先祖供養とするところに特色があったのだ。
 故古川誠大先輩は、新聞社のインタビューで、こう語っている。
「八戸市の隆盛と裏腹に小中野地区はさびれる一方で憂慮していた。先人が残してくれた流灯会の残り火を再び灯すことで、地区の振興の一助にしたい・・・」
と、まさに、その決意のもとに、灯籠流しは回を重ねる毎に活性化していく。
 バブル時代には各企業の協賛も得られ、大灯籠主体となり、八戸ボートクラブの協力もあって新井田川全体が大灯籠と、それを牽引(けんいん)するボートで色彩(いろあざや)かに染まった。
 また、その入魂式が館鼻漁港、八戸水産公社前で開催され、その後、小中野・湊地区をパレードした時期もあった。
 そしてまた、小中野見番の芸者さん方の披露や太鼓競演やブラスバンド演奏も併催されたりして、活性化から肥大化していくのである。
—しかし—
 その肥大化なるが故に、疲弊していくことにもなる。それは経費や労力の増大化によってであり、その後、原点に立ち戻るべく方向性が打ち出され、やがて現在のような「小灯籠」主体の灯籠流しとなっていくのであった。
「川の流れ」のように「灯籠流し」も変遷流転してきた。

—爾来—
 復活してから今年で41年目となる。
 多くの携わった大先輩方も物故され、川面に、その灯籠を流し見送った。
 私自身も「あれから40年!!」、そのうち見送られるかもしれない。
 今年の灯籠流しは、「八戸花火大会」と日程が重なり、大花火と共に今までなかった鮮やかな彩りにあふれた見送りとなった。
 その一方で、牽引ボートの減少により、大灯籠は堤防の上に置かれ、小灯籠は川中からの放流ではなく岸辺からともなる。
 41年の歳月と共に、灯籠流しの形体は変遷し、これからも流転せざるを得なくなるだろう。
—これも、時の流れ—なのか。
 しかし、変らないのは、亡き人を偲び、先祖を敬うその「心」である。

 先月号、今月号と二回に渡り「新井田川灯籠流し」の歴史とその物語を、私の思い出とともに「さわやか説法」してみた。

 もう夏は終り、秋彼岸を迎える。
                                                                 合掌
参考 デーリー東北紙 昭和52年8月17日号
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