『月刊ふぁみりぃ』 2017年11月18日
「考えるな!!」を考える |
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和尚さんのさわやか説法286
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
老師は言われた。
「坐禅中は何も考えるな!!」
「頭には、いろいろなことが浮かんでくる」
「浮んできても、それに執われるな」
老師の声が静寂の中にある坐禅堂内に響く。
そこには約百名の学生和尚らが、緊張しつつもじっと脚を組み、慣れぬ痛さとしびれに耐えて坐禅をしていた。
—そう—
この状景は、私が初めて「坐禅」なるものを体験した時のことだった。
和尚の道に進むべく決心をしたのは十八才の時。昭和43年だった。
私は、仏教系の大学である東京は駒澤大学を受験した。
その当時、八戸高校では、それぞれの学生が受験した大学に合格すると、廊下に各学生の合格校をズラーッと掲示していた。
私の名前の下欄には「駒澤大学 仏(ぶつ)・仏(ぶつ)」とあった。
皆んなが集まり、自分の名前を探し当てると今度は悪友らの合格校を見るのだ。
—そしたら—
ある級友が私の肩をポンと叩くと、
「高山!!お前!!駒澤とやらのフランス語学科に入るのかぁ〜?」
(※その当時、駒大はあまり有名ではなかった)
「ワッハッハ。お前!!英語もろくすっぽ出来ないのに、なんでフランス語なのよ?」と笑い飛ばした。
「はぁ〜?」
私は、肩を叩いたその級友をまじまじと見つめ、
「違うじゃ!!フランスでなく、仏教学部の仏教学科さ入ったのよ!!」
「えっ?仏教?」
「お前、坊さんになるのかよぉー」
「そりゃあ、そうだよな。お前んち!!お寺だもんな!!」
「フランスは お前には似合わねぇもんな!!」
私は、掲示板に書かれた如くブツブツ言いながら、思いはフランス国ではなく、花の都は大東京に夢を馳せいていた・・・・・・。
—かくして—
その合格後の3月24日、今は亡き父でもあり、師匠でもある「高山不言和尚」は、入学を目前に坊さんとなるべく「得度式(とくどしき)」を上げて、東京は駒澤の地に送り出した。
行った先は、駒澤大学「竹友寮(ちくゆうりょう)」という学生寮だ。
そこは、単なる学生寮ではなかった。
入寮の条件は「得度」をしている者。
つまり、小僧の資格を有する学生のみが許可されるのであり、将来の和尚となる為の養成機関でもあった。
—故に—
寮の中には、法要儀式をする「本堂」も、坐禅修行する本格的な「坐禅堂」もあった。
寮生は、新入生が約120名、先輩方が約30名の合計150名全員が「坊さんの卵」であった。
持参品の必須条件は学用品のほかに「法衣」「お袈裟」に、そして「着物」や「御経本」だ。
皆さん!!ピックリポンでしょっ!!
—すなわち—
御本山の修行と同じなのだ。そこでは大学での勉強と共に、徹底的に修行の「いろは」から叩き込まれるのであった。
「坐禅中は何も考えるな」
「坐禅の時はひたすら坐れ!!」
「いろいろと頭の中に浮んできても、それは浮びっぱなしで、追い求めることのなきよう坐に親しめ!!」
老師でもあり、指導教授でもある寮長先生は、私達に訓誡を垂れる。
爾来。私自身、そのたたき込まれた体験や教えられたことを基として、八戸に帰ってきてからは、自己の坐禅修行において。あるいはNHK文化センターでの「坐禅教室」や、青森少年院、刑務所での「坐禅教誡」では、そう指導していた。
—しかし—
今月、第一日曜日、「朝の坐禅」教室の時だった。
それを根底からくつがえさせられたのだ。
開始の時刻を確認する為にTVをつけた。
そこに写し出された番組はNHKの「目撃!にっぽん 考える、高木美帆〜オリンピックへ密着2900日〜」だった。
始めは、時刻だけを見るつもりだったが、その内容が語られるに従って、私は「う〜ん」と唸ってしまった。
それは、当番組のテーマである「考える」に考えさせられたからである。
今まさに「朝の坐禅」が始まろうという時だからこそか?
「坐禅中は考えるな!!」とは、真逆に「考える」ことの意味を問い語っていたからである。
スピードスケートの高木美帆選手は、来年2月に開催される「平昌(ピョンチャン)オリンピック」で金メダルを最も期待される日本を代表するアスリートである。
彼女は、中学三年生でバンクーバー五輪に出場。シンデレラガールと呼ばれた。番組は以来8年間に渡り、その姿を、その心を映像にすべく密着取材してきたものだった。
カメラマンであろうか、番組のディレクターなのであろうか。
密着するが故に気づくのである。
—それは—
高木選手がレースや練習直後に「何か」を常に「考えている」。その姿だったのだ。
番組は、彼女の「考える」に視点を置き、その「考える」が「何なのか」をカメラが徹底的に追う。
私はTVの前に釘づけになった。
私の脳裡の奥が、
「坐禅中は考えるな!!」との老師の訓示と高木選手の「考える」姿が交錯し合って、ガンガンと脈打っていた。
私の中で、「何か」がはじけようとしていた。
「アッ」と声がついて出た。
「俺は、今まで坐禅中は何も考えない。と考えていた」
「考えることを否定してきた」
「だからこそ、坐禅が終ってからも、自分でどのような坐禅であったかも考えることはなかった」
「俺の坐禅は、何も考えることもせず、終われば終りっぱなしだった」と・・・。
「考える」ことを、「有心」という心の内容、脳の働きとするならば、「考えない」という心の働きは「無心」という心の状態をいうものであろうか。
高木選手の映像に、そのヒントがあった。
彼女は、レース直後から自己点検の「考える」を思考するが、本番のレース中は、やはり「考えない」のだ。
まさに、レース中は目の前の「氷盤」のみをとらえ滑走するだけなのだ。
それは「無心」の状態なのであろう。
考え続けていた「考える力」が体得されているからこそ、それが自然体となっての「無心」となれるのだ。
—さすれば—
私における「坐禅」は、どうだったのか?「無心」にも成りきれないばかりか、坐禅後に考えることもしない。「有心」としての「考える」自己検証をすることもなかった。
まさに、ほったらかしの「坐禅」をしていたのだ。
—この時—
また「アッ」と声がついて出た。
「功夫坐禅(くふうざぜん)だ!!」
道元禅師は、我々修行僧に示しているではないか!!
「功夫坐禅」
「功夫弁道」・・・と。
まさに、この「考える」という「有心」そのものが「功夫」という当体ではないだろうか。
私は高木美帆選手の「考える」について考えさせられた。
—てなことで—
次号にては、この「功夫坐禅」の「功夫」の本質について、考えてみたい。
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合掌 |
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