曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2017年12月16日
 「考えるな!!」を考える パートⅡ
  
和尚さんのさわやか説法287
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 先月号の「さわやか説法」で取り上げた「高木美帆」選手が今スゴイ!!
 米国ソルトシティに於いて開催されているW杯、女子団体パシュートで世界新記録の2分50秒87で優勝した。
 今季3戦連続の世界新だという。
 先月号で私は、何故高木選手のことを、さわやか説法したくなったのか?
—それは—
 彼女の「考える」との意味をNHKの番組から、考えさせられたからだった。
 それは、レースや練習直後に、常に「何か」を考えている姿だった。
 その「何か」とはいったい何だろうか?
 それは、たぶん自己点検、自己改善と自己啓発、そして自己チャレンジなのではないか。禅で云う「自己功夫(じこくふう)」なのだ。

 彼女は、本年最初のパシュート世界新で優勝した時、こう語っていた。
「1回、1回のレースで自分たちの改善点を見つけて、次はこういうふうにチャレンジしよう!!」
「それがタイムを縮める結果につながる」と。

 高木選手は12月3日にスピードスケートW杯カルガリー大会の個人種目、女子1200mにおいて1分51秒79で優勝している。
 またそれ以前の3000mでも3分57秒09で、やはり優勝している。
 まさにオールラウンドプレーヤーなのだ。
 その原点は、「考える」ことであった。

 ひるがえって、私達禅僧にあっては、坐禅中は「何も考えない」「何も考えるな!!」と教えられてきた。
—故に—
 坐禅中ばかりではない。坐禅が終わってからも、自己点検たる「考える」を私は、してこなかったのである。

 先月11月。常現寺において「いけだ海(うみ)墨彩画展」が開催された。
 そこには、笑顔に満ちたまんまるお地蔵さんが、海さんの独特の筆致で描かれ、これまた独特のロゴで表現されている絵が大広間中に飾られていた。
 その「池田海」氏が、私にこう言って語りかけてきた。
「和尚さん!!境内の掲示板に貼られていた『さわやか説法』を読みましたよ」
「考えるな!!を考えるって、おもしろかったなぁ〜」(笑)
「和尚さんらしい考え方だね」
「普通は、考えるなって言われれば、考えないもんね」と感想を述べるのである。
—そこで—
 私は逆に、こう聞いた。
「海さんは、絵を描いている時は考えながら描いていますか?」
すると、こう言われた。
「その時は、何も考えてませんね」
「描く前には、かなり考えます」
「それと、描いた後も、これでいいのか?って考えます」
 私は、その言葉を聞いて、やはり考えさせられた。

 高木選手は、レース中は「考えることなく」無心で氷上を滑走する。
 池田海さんも、絵を描いている時は、「考えることなく」無心でキャンバス上に筆をすべらす。
 そして、どちらもその前後には熟慮し、必死に「考える」のであった。

 私の坐禅は、その坐禅中は「何も考えるな」と教えられてはいるが、いつも「何か」のことを考えながら坐禅している。
 そして、坐禅が終わってからは、始まる前も、どちらもそのまま「考えない」のであった。
 まるっきり逆なのだ。高木選手や海さんとは・・・。トホッホッホ・・・。

 では、「考える」とは、どんなことだろうか?
 考えるの語源的意味は、文語の「かんがふ」で、古くは「かむがふ」であるという。
 つまり、「考える」の最初の「か」は、「すみか(住み処)」「ありか(在り処)」の「か」であって、そこに「かむがふ」だから「向かう」ことを意味しているというのだ。
 このことから、自分の住(す)み処(か)、在(あ)り処(か)の場所から、向かう処とを対比して思いめぐらすことが「考える」の語源とされる。
 故に、その意味が元となって、「向かう」為に、筋道を立てて頭を働かせる。また判断する。結論を導き出す。ともなり、あるいは予想、予測し、決断するという意味になるというのである。
—ということは—
「考える」とは、知的に分析する。また客観的に思考し判断する自己の精神的活動のことを表わすことであり、それに伴う自己の行動をいうのであった。

—まさに—
 高木選手の「考える」とは、このことだったのではないか。
 氷上においてのゴールという「住(す)み処(か)」「在(あ)り処(か)」に向っての、自己を客観的に分析し判断して思考をめぐらす精神的な活動とそれに伴う行動的、あるいは身体的活動だった。
 だからこそ、彼女はスケート改善を問う「考える」という、自己の身体的改善、精神的改善を徹底するのであろう。

 私のごときは、そこまでの修行に至っていないことは確かだ。
 生半可な「考えない」坐禅であり、生半可な修行をしているとしかいえない。

—かくして—
 道元禅師は、そんな坐禅を戒められる。
「功夫坐禅(くふうざぜん)」
「功夫弁道(くふうべんどう)」と・・・。
 道元禅師は『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』の中で、こう説かれる。
「利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶことなかれ 専一に功夫(くふう)せば 正(まさ)に是れ弁道(べんどう)なり」と・・・。
 この意味を解釈するならば、
 利口とか愚かとかということではない。ひたすらに専ら心を一つにして功夫することが、仏道を弁(わき)まえ精進するということである。
 ここで云う道元禅師の「功夫」とは、ひたすらに精進する、只管(しかん)に修行することを指すが、私は「考える」という精神的、身体的な行動そのものでもあるのではないかと考えている。
 「自己」という「住み処」たる仏心、仏性に向かっての「考える」を受け継いで行くことであって、「考えない」ことではないのだ。

—では—
 坐禅中の「考えない」とはどういうことだろうか。それは、考えることを禁止しているのではない。
 休めよ!!ということなのだ。
道元禅師は、こうも説示されている。
坐禅の時は、「万事を休息せよ」と。
 だからこそ、老師の教えである坐禅中での「考えるな」は、「考える」を止(や)めよということではなく、「休ませなさい」という意味での「功夫(くふう)」だったのだ。

 皆様におかれては、慌ただしい年末をお過ごしでしょうが、来るべき平成30年のお正月は、ゆっくりと「考える」を休息させて、よきお正月を迎えてはいかがでしょうか。
                                                                 合掌
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