『月刊ふぁみりぃ』 2018年6月16日
高木美帆選手の「考える」を考える パートⅣ
=テスト後の勉強について更に考える= |
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和尚さんのさわやか説法291
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延 |
「あれから、五十年!!」綾小路きみまろ風に嘆いてみても、もう遅い。
先月号の「さわやか説法」で、「テスト前か、テスト後の勉強か?」をテーマにしての私の結論が、そうだった。
50年経って、やっとこの歳になって気付かされたのである。
−それは−
本年2月。平昌冬季五輪において、金銀銅三個のメダルの栄冠に輝いた女子スピードスケーター「高木美帆選手」に焦点を当てたNHKの特集番組「目撃!!にっぽん」『考える、高木美帆〜オリンピックへ密着2900日〜』を見て、そこから私自身の修行体験を重ね合わせ物語した上でのことからだった。
今月号は、冒頭に述べた「テスト後の勉強」について、50年後に気付かされたことを更に展開してみたくなった。
−何故かというと−
先月号の「さわやか説法」に対して、読者の方々から、いろいろな感想を頂戴したからだった。
多分皆さんも、子ども時代のことを振り返って「身に覚え」があるからなのであろう。
私は、テスト後に先生から返された答案用紙の点数だけを見ては一喜一憂し、正解した○印の箇所しか見ていなかった。
×印のついた箇所には見向きもしなかったのである。
故に「どうして間違ったのか?」
「なんで不正解だったのか?」
というような疑問すら持たず、放り投げては一顧だにすることもなかった。
−実は−
50年後に気付いたのはこのことだった。
先生から返された答案用紙で最も大事なのは「×印」のついた箇所ということである。
「○印」よりも、むしろ「×印」の方が自己の学力不足、読解力不足、注意力不足を指摘し、如実に示し教えていることに他ならないからだ。
例えば100点を基準にして考えるならば、90点、80点、あるいは70点だったとしても、それは高得点ではなくして マイナス10点であり、マイナス20点、30点であることを示しているのだ。
−つまり−
私自身の小中高時代においては平均点を基準として、それより高いか低いかで点数評価をしていた。
そうではなく、100点満点を基準としての考え方である。
このマイナス思考こそが、自己の弱点や欠点を補うべきことや、また克服すべきことを教え示しているのではないか。
それをしっかりと検証することが次へのプラス思考となるということである。
「×印」は「○印」への原動力であり、マイナスからプラスへの転換力でありステップ力なのだ。
テストの間違いには大きく分けて、①「ケアレスミス」という単純な間違いや不注意等による誤り②「わからなかった」③「覚えていなかった」と三つに分類されるという。
−では−
どのようにテスト後に、その間違いに対して勉強すればよいのか…?
①の「ケアレスミス」は、その不注意やうっかりミスは分かってて解答したのだから、その原因は、すぐ確認出来るわけで、それをキチンと訂正すれば次からは同じような間違いはしなくなる。
②の「分からなかった」問題への対応は、教科書や参考書を手引きとして、あるいは先生に尋ね、改めて「考える」ことで正解を導き出す確認学習法であり、③の「覚えてなかった」問題に対しては、②と同じく教科書や辞典等々から、覚えていない箇所をしっかりと確認して、覚えてしまうと云う学習法だそうだ。
−そんなこと−
私は一度もやったことがなかった。
50年経って今、えらそうなことを「さわやか説法」している…。トッホッホッホ!!
−即ち−
終わった後の「検証」が大切であり、自己の弱点や間違いを、しっかりと意識し改善する「考える」ことの大切さを私は述べたいのである。
テスト後に返された私の×印だらけの答案用紙は、まさに自分の弱点、欠点を教え示してくれていた勉強の「宝の山」だったのだ。
どうぞ皆様の御家庭においても、子ども達に宝の山である「テスト後の勉強」をアドバイスしてみたらいかがであろうか。
勉強は分かれば面白いし、楽しい。楽しければ、勉強がもっと面白くなる。
−昔のことだ−
三十才代に私は「布教」の勉強をしたくて、曹洞宗における「布教師養成所」に入所した。
そこは定員が50名で各県から大概1〜2名の割合いで許可され、新人の一年生から、古強者(ふるつわもの)の七〜八年生と布教師を志す僧侶らが参集した。
一年間、春秋冬の三期に分かれ、一期が一週間。朝5時から夜8時まで、本庁の研修道場に缶詰状態で寝食を共にし、徹底的に勉強をする養成所だった。
入所するにあたり、事前に布教の課題が与えられ、それに従って自分の「法話」を作成し、50名の中で発表する「布教実演」をしなければならない。
初日の午前中に主任講師たる老師様からの「主題講話」があり、午後から一人ずつが一週間に渡り実演発表をする。
その際に「講評用紙」なるものが全員に配布され、各々の実演について批評を記載するのである。
実演発表者に対しては法話の内容はもとより、展開の仕方、結論への導き方から、態度や所作まで、他の49名の厳しい視線が注がれる。
もう緊張するなんてもんじゃない。震え上がってしまう。
その発表が終わると一斉に全員が「講評用紙」に自分が感じ取った批評を書くのだ。
つまり、ある意味で自分の法話が採点される答案用紙でもあった。
それはそれは辛辣極まりなくダメ出しの酷評だらけであり、涙が出そうな論評で埋められていた。
中には、良かった点なんかを書いてくれたりする慈悲深い方もあり、また2、3行しか書いていない適当な講評もあった。
−しかし−
それらの講評用紙は、私の法話のいたらない点や欠点を指摘するものであり、「自己検証」の布教の「宝の山」だった。
その講評用紙は回収され、一旦主任講師のもとに届けられる。
これは、後で気付いたのだが、主任講師は一人一人の講評用紙をつぶさに目を通し、その後本人に返す。
つまり、主任講師は50名の50枚分、2500枚を読み、一人ひとりの講評用紙の内容を点検しているということだった。
各実演者の法話をよく聞き、よく理解し、よく講評しているかを見定めているのである。
−即ち−
講師たる先生は、入所生全員の布教者としての「資質」や「勉強力」を検証していたのだ。
私達は先生に「検証」されていたのである。
−ひるがえって−
高木選手の「考える」とは自らのスケートの資質向上を「検証」するばかりではなく、リンクなる「氷上の神様」から「検証」されていることを体感していたのではないか。
まさに彼女の「心技一体」のスケートは「神技一体」となる「考える」ことの結実だった。
今月号もまた「高木美帆」選手の「考える」を勝手に考えて物語を展開させてしまった。
高木選手と読者の皆様には、平にお許し賜りたく存じます。
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合掌 |
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