和尚さんのさわやか説法362
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

「オッオッオカァーチャン~」
「コッコッコ・エ・ガ デ・ナ・イ………」
「セイタイガコワレチマッタ……」
 声が出ない、いや!!出るには出ているが、しわがれ掠(かす)れた喉奥が詰まったような音しかでなかった。
 私は 朝起きて歯を磨き顔を洗い終わると、
「あっあっあーー」
「おっおっおーー」と発声練習するのが、朝起きのルーティンだ。しかし、その日は、いつもとは、まるっきり違った。
 あまりにも突然だった為 自分自身でびっくり仰天、うろたえた。
「えっ?」
「なんだ?」
「どうなったのだ?」
 私は まだ眠っている奥様の布団に向って叫んでいた。

 冒頭のガラガラ声のカタカナ語を普通の言葉で再現すると…。
「おっおっおかぁちゃ~ん」
「こっこっ声が出ない………」
「声帯が壊れちまった……」
 自分の身に何かあった時。うろたえた時。
 自身の体が 何か変調をきたした時。
 私は子どもになってしまうようだ。
 この年になっても。後期高齢者になっても。
 ましてや僧侶なのに…。
 奥様が、いつの間にか母親になってしまうのである。
 以前、コロナに感染して陽性反応が出た時もそうだった。

 揺り起こされ、渋々目を覚ました奥様は、私の「コッコッコエガー」を聞くと、
「あっそっ」と言うやまた布団をかぶってしまった。
 全然、驚きもしないのだ。声が出なくてかえって静かになり、良かったと思ったかもしれない……。奥様の方がずうっと大人(たいじん)である。
トッホッホッホ💧💧💧

-しょうがない-
 私は、声は出ないものの体具合が悪いわけではない。
 いたってピンピンしている。
 だから いつもの通り本堂の扉を開け、御本尊様に湯茶を献じ、御仏様方のお仏膳作りを始める。
 その間、ずうっと「あっあっあー」とか「おっおっおー」と発生練習するのだが、一向に改善しないのだ。
「まぁー」
「そのうち良くなるだろう」と、高(たか)を括(くく)っては、その日も、次の日も檀家さんの御供養は変わらずに勤めた。
 ひしゃがれた擦(かす)れながらも 不思議と御経の声は、なんとか出る。

-3日目-
 症状は一向に改善せず、むしろ、悪化の一途。
 まるで気の抜けた炭酸水のような声だ。
「シュワッー」としたキレがまるっきりない声だ。
 思い余り咽喉科を尋ねた。
 行く前に、私は 発症から今までの経過をA4版の用紙2枚に箇条書きで 時系列に並べ書き綴った。
 何たって、私はこの「さわやか説法」で毎月 鬼の編集長に尻を叩かれながら書くのは鍛えられている。
 それを窓口で提出し、やっと診察の順番が回ってきた。
 先生は それを丹念に読み終えると、「フー」と息を突き喉の様子を診た。次に鼻からの内視鏡検査だ。
「声帯がバイ菌に感染したみたいで腫れています」
「まぁ 十日もすれば良くなると思います」
「その間、声は出さないように!!」
 私は咄嗟に答えた。
「ムリです」
「では、大きな声は出さないように」
 またもや、「ムリです」
 それを聞いて先生はムッと詰まり、何も言わなかった。
 でも 先生の心の中の呟きが聞こえたような気がした。
「じゃあ!!勝手にしろ!!」ってね……。
-だって-
 私は、檀家さんの御供養はあるわ。葬式だって控えてるわ。
「声を出すな!!ってのは無理なんです」と心の中で 先生に向かって叫んでいた。

-あの時の-
お葬式は ひどかったなぁー。
 前代未聞のお葬式だった。亡くなられた仏様にしては えらい迷惑だったに違いない。
 遺族にしてみれば、 しゃがれた声の御経を、終わるまで聞かされ、その上に お布施まで出さなければならないのだ。
-でもね-
 そのお葬式は、自分で言うのもなんだが、実に「味」のある御経が唱えられたのである。
 声が普通に出ないだけに その声帯の通り道の良い所を探し、そこから絞り出し、全身を震わし唸る声は 苦しいながらも絶妙であると感じた。
浪曲風アレンジ御経だ。

 その時、気づかされたことがあった。
 思ったように声が音として出ない。つまり出そうと思っている音が形成されないで、ズレるというか、裏声的になったり、素っ頓狂な声に変化したりするのである。
 思った通りに出ないというのは、脳からの指令がきちんと声帯に反応しないで、反応出来る場所だけで音を出そうとしているのではないか?
 だからこそ、その擦(かす)れた声の特質を生かして出る音で通り道を調整して御経を読んだのである。

『声は、どうして出るのでしょうか?』の論説。東京医療センター・臨床研究センターの「角田晃一」先生は、このように分かりやすく説明されている。
「音声言語コミュニケーション」」と題して
「脳(発声中枢)」から「発語の指令」を受け、「呼吸器官」は、「呼気の生成」(発声の動力源)となって空気を出す。それを受けて「喉頭(声帯)」は、その空気を振動させ音に変える(音の生成)。
 更に、その音を口という「構音器官」が音色を加える(言語音の生成)ということで、音声言語となり相手に伝わるというシステムなのだ。
 即ち、脳の指令によって これらが同時に肺・声帯・口に働いてお互いのコミュニケーションによって言葉が音声となるのだ。
 私の「声帯が壊れちまった」事件は、まさにこのコミュニケーションバランスがバイ菌の感染によって不調になってしまったのだ。
 人間の体の機能というのは、「スゴイ!!」とあらためて気づかされた次第である。

 お釈迦様の真実の言葉を説かれている
『法句経』(361)にこう示されている。

身(み)の上に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
語(ことば)の上に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
意(おもい)の上に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
一切処(すべて)に摂(ととの)うるは善(よ)し
かく摂(ととの)えたる比丘は
すべての苦より脱(のが)る


 このお釈迦様の教えとは まるっきり真逆のことを実感したのである。

身の上に
おのれを摂(ととの)うるは悪(わる)し
声の上に
おのれを摂(ととの)うるは悪(わる)し
音の上に
おのれを摂(ととの)うるは悪(わる)し
一切処(すべて)に摂(ととの)うるも悪(わる)し
かく絶不調なる和尚は
すべての苦により踠(もが)く

 またまた お釈迦様の尊い教えを 自己流に置き換えてしまった。
 本当に摂え難い和尚であることは確かなことだ。
 この「声帯がこわれちまった」事件の真相は、来月号のパートⅡで語ることにしたい。
 まさに 私自身の「身の上を」摂(ととの)えなかったことが原因であったと判明したのだ。
トッホッホッホ💧💧💧

合掌

 ※参考『法句経』友松圓諦訳 講談社学術文庫