和尚さんのさわやか説法365
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今年の夏は 殊(こと)の外(ほか)暑い。それも6月からであり ずうっと暑さが持続している。
 多分に 今年の「お盆」もまた この暑さの中で御先祖様や、亡き人を この世にお迎えすることになろう。
 きっと、御先祖様方も「暑い暑い」と言っては
「こりゃ!!たまらん!!」
「早く 涼しいあの世へ帰りたい」とか
「熱中症になるかも?」
「仏の熱中症だぁ~」
なんて 言うかもしれない。
―でもね―
御先祖様方にとっては、1年に一度の我が家への里帰りの日である。誰もが帰りたいのだ。
―大丈夫!!―
皆様 夕方は涼しくなる「お盆」ですので、御先祖様方を安心してお迎えしていただきたく存じます。

―さて―
 先般7月末に ある方から電話で、こんな問い合わせがあった。
「仏様である 如来 菩薩 明王 天部の違いを教えてください」
「また、位(くらい)は どの仏様が高いのですか?」
 私は びっくりした。
「ここまで、きちんと仏の名称を言えるとはかなり勉強をし、精通している方であろう」
「それも、よどみなく聞いてくるとは、しっかりとした考え方を持っている人に違いない」
と咄嗟に思った。
―だから―
 私は、その時、いろいろ浮んだ答えを即座に答えるというより、きちんと話さなければならないと思った
「今、あなたがおっしゃった仏様方は それぞれの地位が高いとか低いということではなく、仏様の役割や違いがあるのです」
「まず 如来は 釈迦如来とか、阿弥陀如来というふうに 仏教各宗派の信仰する御本尊 仏様の位置付けがあります」
 と答えると もっと詳しく知りたいとのことであった。
 そこで、私は では追って きちんと文書にして お手紙で送ることにしたいと申し述べると了解して
「では、それを待っています」とのことで電話は切れた。

―ということで―
 それならば、文書というより この「さわやか説法」を通して、その質問をしてきた方には勿論のこと、多くの方々にも、お答えして一緒に考えることにしたいと思うのである。

―それは―
「お盆」の行持(ぎょうじ)での「施食会(せじきえ)」という御供養にも 大いに関連しているからであり、更には、全国の有名な寺院はもとより、地方の各宗派、各御寺院に奉安されている仏像は、
 この「如来、菩薩、明王、天部」に「羅漢」の各仏様方に大別され、鎮座していることからも、しっかりと答えたい。
―そこで―
 これらの御仏様方の尊格や役割、そして違いを概説してみよう。

 抑々(そもそも) 仏教は、お釈迦様が 今から2500年前、菩提樹(ぼだいじゅ)の下(もと)にて「お悟り」を開かれ、その教えを人々に広められたことに始まる。
 お釈迦様が生存中は直接、仏の教えを聞くことが出来たが、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で 涅槃(ねはん)入られてからは その教えは、直接聞いた弟子から弟子へと伝えられていった。
 お釈迦様が 世を去ってから その弟子達、また民衆は お釈迦様を慕い、追い求め、やがてお釈迦様の姿を「像」として具現化し礼拝(らいはい)し始めた。
 これが「仏像」の端緒となったのだ。
 このことによって、仏教は、インドから東南アジア、中国、朝鮮、そして日本へと伝わっていく過程において、古代インドの神々をはじめとして、それぞれの国の信仰と習合していくことによって、「仏像」の種類が増加していくのであった。

―そして―
 人々は、次第にお釈迦様を神格化し、また教えの解釈によって 仏像の尊格や役割の関係性において、「如来 菩薩 明王 天部 羅漢」という風に大別され、序列化されるようになったのである。

―そこで―
「如来」から述べていくことにしよう。
「禅学大辞典」では、如来の意味をこう説く。
「如去(にょこ)とも。如実に来至した者。如実から到来した者の意」
 つまり、真如真実に至り来たって目覚め、悟りを開いた人、また真如真実の世界から、この世に到来した人を意味する。
 言うなれば、「如来」、悟りを開いた状態の仏様であり「真理真如」から来て人々民衆を悟りへと導く者とされる。
「如来」の意味は、まさにその名のごとくに「来るが如し」なのだ。
―故に―
「如来」は、本来、仏教の開祖であるお釈迦様のみを指していたが、仏教の伝播、多様化に伴って、次第に様々な如来が登場するようになった。
 その代表的な「如来仏」は釈迦如来はもとより、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、毘盧遮那如来なのだ。

―まず―
「釈迦如来」は、「釈迦牟尼如来」の略称であり 牟尼とは、寂静、寂黙。静寂な沈黙の境地。つまり悟りの境地にて、沈黙の行をなす「聖者」という意味であり、人々を苦しみから救い心の安らぎへと導く、聖なる如来仏であるのだ。
 それ故、右の手のひらを前に向け、左の手のひらを上に向けて 人々を救う姿を表現している。
 それは、右手は「施無畏印(せむいいん)」といって、「人々から恐れを取り除くこと」であり、左手は「与願印(よがんいん)」といって、「人々の願いを受け止め、その願いを与える」とのことだそうだ。
 あるいは、右手の上に左手をのせて両手の親指の先を水平にしての「法界定印(ほっかいじょういん)」を結んでいる釈迦如来像もある。
 曹洞宗や臨済宗の禅宗系にあっては、御本尊として奉安されている寺院も多い。

―では次に―
「阿弥陀如来」について語ろう。
「禅学大辞典」では、
「仏光の無量であることから無量光と呼ばれ、寿量の無限であることから無量寿とも呼ばれる。これは阿弥陀仏が時間(寿)・空間(光)を通じて 無量無限の偉大なる仏であることを意味している」と説く。
 更には「久遠(くおん)の昔、国王の身から発心出家し 法蔵比丘(ほうぞうびく)となり、四十八の願いを立て修行研鑽を積んで、ついに西方極楽で悟られ如来となって、現世にあって説法している」という。
 このことから、人々を救い極楽浄土へ導いてくれる存在として 信仰されているのだ。
 故に、阿弥陀如来の両手は 二つのパターンがあるが どちらも人指し指と親指を合わせ「輪」を結んでいる。
 右手は正面、左手は上を向けている阿弥陀仏は「来迎印(らいごういん)」の如来であり、もう一つのパターンは「阿弥陀定印(あみだじょういん)」という右手の上に左手をのせて、両手とも人指し指と親指とで輪を作っての印を結んでいる姿の阿弥陀様とのことだ。
 他には、代表的な「如来仏」は 前述した薬師如来、大日如来、毘盧遮那如来があるが、紙面も尽きてきたこともあり、この続きは 来月号の「さわやか説法」で、述べていくことにしたい。
 更には、如来の仏様方が終われば 菩薩、明王、天部、羅漢の各御仏様方について語りお答えする予定である。
 どうぞ 皆様、来月号もお楽しみに……。
 そして 今は、良き「お盆」をお迎えくださいませ……。

合掌

※参考 「禅学大辞典」 大修館書店