和尚さんのさわやか説法366
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 「暑さ寒さも彼岸まで」とか。
 今年の夏は本当に暑かった……。
 全国的な猛暑に、酷暑に炎暑の夏である。ニュースや、TVのワイドショーでは、毎日のように全国各地の炎熱状況を報道している。
 勿論、北国八戸地方でも、6月から続いている猛暑には、市民皆さんそれぞれが、まさに耐えて耐えて、耐え抜いてきた日々であったことと拝察する。

 でも、冒頭に示した通り 秋の彼岸が来る時節ともなれば、やっと この「暑さ」から解放されるだろうか。まだ、続くのであろうか?続くのであれば、きっと 爽やかな秋は、あっという間に過ぎ、冬は、早く来るような気がしてならない。
 猛暑、酷夏の反対は極寒(ごっかん)に厳冬(げんとう)であって、大雪の冬になるのではと今から心配している。

-てなことで-
「如来・菩薩・明王・天部」とは?の質問に答えての第二弾、パートⅡである。
 先月号では、「如来」の意味を説き、そして「如来仏」である「釈迦如来」と「阿弥陀如来」について概説してみた。
 今月号においては、更に「薬師如来(やくしにょらい)」に「毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)」という代表的な「如来仏」について「さわやか説法」するが、どうか浅薄な解説になることをお許しいただきたい。

-まずは-
「薬師如来(やくしにょらい)」である。詳しくは「東方薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」と称する。
 先月号で、阿弥陀如来のことに触れたが、そこでは、「西方極楽(さいほうごくらく)で悟られ如来となって、現世において人々を救い、極楽浄土へ導いてくれる仏様である」と述べた。
-さあ!!そこで-
 今、取り上げんとする「薬師如来」は、その「西方」に対して「東方」の仏様なのだ。
『禅学大辞典』においては『薬師如来本願経』を典拠として こう説く。
「東方十恒河沙佛土(ごうがしゃぶっど)の外に、浄瑠璃(じょうるり)という世界があり、その地の佛が薬師瑠璃光如来である」という。
 ここにある「恒河沙(ごうがしゃ)」とは、数の単位のことで、元々は印度(インド)ガンジス河の砂のことで、無量無辺の数を示す。
 具体的には、10の52乗であり、それが十恒河沙であるからにして10の53乗となるわけだ。まさに無限の彼方におわす如来だ。
 因(ちな)みに 私達が現在使用している数の単位は、古代中国、後漢時代の「算術書」を基としているという。
 即ち、一・十・百・千・万・億・兆 までは 何とか分かる。
 その上は「京(けい)」だ。これは聞いたことがあるが、もし将来、日本の国家予算が九千兆を超すと次は「京」だ。恐ろしい程の金額となる。
 更にまだあるのだ。
垓(がい)杼(じょ)穣(じょう)溝(こう)澗(かん)正(せい)載(さい)極(きょく)とあって、極が10の48乗である。
 そして、その上からは仏教による数字の単位が登場するのであった。
 それが「恒河沙(ごうがしゃ)」であった。
 この「恒河沙」の一桁(ひとけた)上が十恒河沙なのだ。
 仏教の数の単位は、まだ、その上があって、4乗ずつ加算。阿僧祇(あそうぎ)那由陀(なゆた)不可思議(ふかしぎ)無量大数(むりょうだいすう)(10の68乗)まであるというのだから 驚いてしまう。

-話を元に戻そう-
 薬師如来は、その十恒河沙の、その外に「浄瑠璃(じょうるり)」という清浄なる青色の光を放つ仏国世界があり、そこから 現世の人々の救済のため、「如実より来た」、つまり「如来」として現われたのが、瑠璃光如来なのだ。
 このことを
『禅学大辞典』を更に紐解くとこう説いてある。
「この如来は、菩薩時代に12の大願を起こした。この願(がん)によって現に浄瑠璃世界に成仏して如来となり、日光月光(にっこうがっこう)の二菩薩によって護持されることになった」という。
 先の「阿弥陀」様は西方で48の大願を。
 そして「薬師」様は、東方で12の大願を立て 菩薩から成仏して「如来」となって、現世の人々を救済せんとして私達を導かれるのである。
 12の大願の一つ目は「我が来世に菩提を得ん時、自身の光、熾然(しきぜん)として無量の世界を昭破し・・・一切の衆生をまた我と異ならざらしめん」との誓願であって、このような衆生を救わんとする願いが12項目あるのだ。
 この12の大願を守護体現せしめるのが「十二神将」なる護法神であった。

 薬師如来は 左手に薬壺(やっこ)という薬の入った壺を持ち、右の手のひらは前を向けての施無畏印(せむいいん)を結び、病に苦しむ人々を救わんとする如来仏である。
 八戸では、類家の長流寺様の御本尊様であり、秘仏として奉られており、十二神将が内陣の周りを固めている。

-次に-
 毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)である。この如来様は 誰もが皆んな知っている仏様だ。ヒントは?
 場所は「奈良」である。
-そう-
 言わずと知れた「奈良の大仏」なのだ。
 東大寺毘盧遮那仏は、天平17年(745)に聖武天皇の発願によって制作されたという。
『禅学大辞典』においては『一切経音義』を典拠に、こう述べる。
「毘盧遮那、云光明遍照(こうみょうへんじょう)也、佛於身智 以種種光明、照衆生也」
 訳するならば、「毘盧遮那仏とは、光明遍照と云う也。仏、身と智慧において 種種の光明を以(もっ)てして 衆生を照らす也」
 つまり 毘盧遮那如来とは 太陽の如く遍(あまね)く全てを照らす光を放ち その仏身仏智の光は様々な光明となって人々を照らし 苦しみから救済する如来であるという。
 更に『禅学大辞典』では『梵綱経(ぼんもうきょう)』ではとし・・・。
「この佛は、百阿僧祇却(ひゃくあそうぎこう)に心地(しんち)を修行して等正覚(とうしょうがく)を成(じょう)じ、蓮華蔵世界海(れんげぞうせかいかい)に住し その蓮華台の周辺に千葉(せんよう)(千世界)があり、毘盧遮那佛は 千の化身釈迦佛(けしんしゃかぶつ)となって この千世界に住(じゅう)している」と記している。
 要するに、毘盧遮那如来は 百阿僧祇却(ひゃくあそうぎこう)という途方もない年月(10の58乗である)修行をし 悟りを開かれて蓮華台上に住している。
 その蓮華台周辺は、千の花弁に包まれており、そこには化身釈迦佛となって その千世界にこれまた住しているのであった。
 更に驚くことは、こうも述べていることだ。
「また一葉の世界には各々百億の須弥山(しゅみせん) 百億の日月、百億の四天下(してんげ) 百億の菩薩釈迦があって 菩薩の心地法門を説いている」というのであった(※須弥山とは、お釈迦様が説法した場所。四天下は、東西南北の州)。
 つまり その蓮華台のの花弁一つ一つに百億の釈迦が住して 菩薩となって 人々に仏法を説いているというのであった。
 これは何を意味するかというと、千百億の化身釈迦の説法であるということで、森羅万象全てが「仏の世界」であり、菩薩釈迦の心地を説いているということではないか。
(もう、スケールが大きすぎて💧💧💧)
 即ち 毘盧遮那如来は 釈迦如来の本身として宇宙に遍在する真理の姿としての如来仏であるという。
 故に 太陽の如くに万物を照らし、万物を生かし育て救う存在であるのだ。
 まさに 「奈良の大仏」は、天平の時代 そのような思いで国家泰平、人民希望の象徴として建立されたのではないか。
 以上のことから、毘盧遮那如来の姿は先月号で述べた「釈迦如来」と同じく、右手は「施無畏印」といって広げ人々の恐れを取り除き、左手は「与願印」といって人々の願いを与えるとのことで、やはり広げている。

 因みに鎌倉の大仏は「阿弥陀如来」であり、両手は「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」なる「阿弥陀定印(あみだじょういん)」を結ばれているという。

 紙面も尽きてきたことから この続きは、10月号の「さわやか説法」で語りましょう。

合掌

※参考「禅学大辞典」大修館書店