和尚さんのさわやか説法368
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
またまた今月号も「如来」を取り上げる。
如来は、古代インドの言語、サンスクリット(梵語)で表わすと、(tathāgata)と発音する。
それが中国に伝来すると音訳して、多陀阿伽陀(タタァーギャタ)とか、但薩阿竭(タターギャタ)、怛他誐多(タターギャタ)と漢字化された。
この音訳された漢語(タタァーギャタ)そのままが『甘露門』なる御経には 地獄の餓えた精霊(餓鬼)を救わんとして、各節毎に登場し、読誦されるのであった。
この御経『甘露門(かんろもん)』は、毎日夕刻時の「晩課(ばんか)」において、お勤め読経するが、主には 「お盆」の時に「施食棚」という祭壇を設け その前において多くの衆僧を集め、供養する時に読まれる。
―それは―
その施食棚(せじきだな)に 餓えと渇きに苦しむ精霊(餓鬼)を招き集め 山海の珍味を供養し、多くの僧侶による読経によって、腹一杯食べてもらい 幸福感に満たされて成仏せしめんとする法要であるからだ。
その経典には、まさに「如来」(タタァーギャタ)の慈悲の心と功徳の力によって救わんとすることが説かれているのだ。
―そこで―
『甘露門』の冒頭、第一節の「雲集鬼神招請陀羅尼(うんしゅうきじんしょうしょうだらに)」において、地獄世界の雲集せる餓鬼を招き寄せる陀羅尼(だらに)(咒(じゅ))を唱える。
「ノウボー、ボホリ、ギャリタリ タターギャタヤ」と……。
ホラ、ここに「タターギャタ」とあるでしょ!!
―そして次に―
「破地獄門開咽喉陀羅尼(はじごくもんかいいんこうだらに)」といって、如来が地獄の門を破り 雲集せる餓鬼の咽喉(のど)を大きく開かせる咒を唱える。そう!!「オン、ボーホティリ ギャタリ タターギャタヤ」と……。
―そうしたところで―
「無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼(むりょういとくじざいこうみょうかじおんじきだらに)」なる「如来」の無量威徳にして自在光明の加持力によって飲食を与え 餓えと渇きを満たさんとするのであった。
―更には―
「蒙甘露法味陀羅尼(もうかんろほうみだらに)」といって 甘く美味しい「如来の法味」即ち、仏の教えを どうぞいただいてください、との咒を唱えるのだ。
―続いて―
「毘盧遮那一字(びるしゃないちじ) 心水輪観陀羅尼(しんすいりんかんだらに)」によって 毘盧遮那、即ち大日如来の光明から流出せる「清らかな水」によって身心共に渇きを潤す祈りを施すのであった。「ノウマク サンマンダ ボタナン バン」と…。
それが この咒(じゅ)の要(かなめ)とする「
」(バン)という真言一字だ。
そして愈々(いよいよ) 「五如来」なる如来が登場する。
五如来は、施食会(せじきえ)法要において本尊として祭壇上に奉られることから、その上部に お名前が書かれた「五如来幡(ごにょらいばた)」なる旗が飾られるのであった。
向かって右から
一.南無多寶如来(なむたほうにょらい)
二.南無妙色身如来(なむみょうしきしんにょらい)
三.南無甘露王如来(なむかんろおうにょらい)
四.南無廣博身如来(なむこうはくしんにょらい)
五.南無離怖畏如来(なむりふいにょらい)
である。
この五如来は、それぞれ、どの方角に位置し、どこのどなたで、何をなさるのか皆様に より具体的に例示しよう。
まず第一番目の「多寶如来」とは、南方に位置する「寶勝仏(ほうしょうぶつ)」のことであり、この仏は、「除慳貪業福智円満(じょけんとんごうふくちえんまん)」なる 餓鬼となった精霊の「欲(よく)ばりと貪(むさぼ)りの心を除いて 福智円満とならしめたまえる」のである。
二番目の「妙色身如来」とは、薬師如来と同じく東方に位置しての「阿閦仏(あしゅくぶつ)」のことであり、この仏は、 「破醜陋形円満相好(はしゅうろうぎょうえんまんそうこう」なる 骨と皮になった飢えに苦しむ顔や体を破して、円満にして相好なる顔かたちにならしめるという。
三番目の「甘露王如来」とは、西方浄土の仏「阿弥陀仏(あみだぶつ)」のことである。阿弥陀様は、「灌法心身令受快楽(かんほうしんしんりょうじゅけらく)」として 仏の教えを灌(そそ)いで 飢えたる身にも、心にも喜びに満ちた快(こころよ)い楽(らく)を受けさせたまうのである。
更に四番目の「廣博身如来」とは、中央に位置する「毘盧遮那(大日)仏」である。大日様は、まさに 「咽喉広大飲食充飽(いんこうこうだいおんじきじゅうほう)」なる雲集せる全ての飢えたる餓鬼の咽喉を広げ飲み物や食物を施し与え腹一杯に満足したまえるのであった。
そして最後、五番目の「離怖畏如来」とは、北方に位置する「釈迦牟尼仏」であった。
釈迦仏は、「恐怖悉除離餓鬼趣(くふしつじょりがきしゅ)」として 飢えによって怯え苦しむ恐怖の心を悉(ことごと)く取り除き その地獄の餓鬼世界から離れしめたまえんとするのであった。
以上、『甘露門』という「曹洞宗」で 施食会法要にて読む御経に説かれている「五如来寶号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうしょうしょうだらに)」という項目を詳説させていただいた。
まさに 五人の如来仏の宝号(お名前)を呼び招きその功徳による陀羅尼(咒)なのである。
東西南北そして中央に位置し、救いの手を差しのべたまわんとする内容が 具体的に述べられているのであった。
私は、ここまで御経『甘露門』における 五人の如来仏を 皆様に分かりやすくと思い、調べながら述べてきて、「ハッ」と気づかさせられることがあった。
―それは―
それぞれの五人の如来(タターギャタ)は東西南北そして中央におられて 救いの手を差しのべているということではあるが、
そういう方角的な存在のことではないと思った。
―つまり―
それぞれの如来仏はどの方角にもおられるということだ。
いわば、いつでも、どこでも、誰にも教えを垂れ 導き救わんとしているのではないか。
―そして―
それぞれの役割も同様になされているのではないか?ということだ。
役割分担をしているのではなく、五人の如来は オールマイテーに全てをこなし、救いを求める「餓鬼」に手を差しのべていることではないか?と……。
―そして更に―
気づかされたことは。
この『甘露門』なる御経においては 救うべくはあの世の「餓鬼」を対象としているが、 実は 現世にいる私達に説き示していることではないか?ということであった。
この飢えたる鬼は、私達の心の中に住む、「我欲(がよく)」「我執(がしゅう)」のことなのだ。
際限なき自己の欲望を求め尽くさんとする飢えたる心。あるいは他を顧みることなく 自己を利するだけの渇望執着の心。 これこそ、まさに「餓えた鬼」そのものだ。
―故に―
如来(タターギャタ)は、私達の心に住む、「餓鬼の心」を救わんとしているのである。
貪りの心を取り除き欲を求めての形相を円満にし、更には如来の慈悲の教えを 灌(そそ)いで心を楽にさせ、喜びと幸せに満ちあふれ、そして怖れを離れて、安楽浄土の世界へ導きたまわんすることを説いているのであった。
合掌
今回で「如来」編は終りとし、来月号からは「菩薩」編に入ります。
※参考:『禅学大辞典』大修館書店、『曹洞宗読経偈文全書』中野東禅 編著 四季社




