和尚さんのさわやか説法244
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
先月号の「さわやか説法」はお休みをしたので、3月号からの続きを、更にまた展開します。
禅門流での食事作法は、その実際に食べる行法と、「いただく」前後の偈文のお唱えの両者から成り立っている。
先月号では、食べる食器である『応量器』を広げるところの「展鉢の偈」というお唱えの意味をお話しさせていただいたが、今号では、その後に続く偈文と、お昼ご飯時の禅宗メニューを紹介する。
そのメニューは、写真のように左側の麦か白米のご飯と真ん中の味噌汁と右側の漬け物の三種類だけで、夜はこれに煮物の副菜が一品つくだけだ。誠に質素ですね。
先の「展鉢の偈」を唱え終わると、次に「十仏名(じゅうぶつみょう)」といって、あらゆる御仏様の名を読み上げる。ここには数字は確かに「十」ではあるが、これは単に「10」ではなく「あらゆる」仏様との意味がある。
このことは、仏に感謝し、仏からの恵みをいただく、そして仏である自分自身も、仏と共に食事をいただくことにあった。
「清浄法身毘廬舎那仏(しんじんばしんびるーしゃーのーふー)つまり毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)であり次に廬舎那仏(るしゃなぶつ)。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。弥勒尊仏(みろくそんぶつ)。文殊菩薩(もんじゅぼさつ)。普賢菩薩(ふけんぼさつ)。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)。三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)。諸尊諸菩薩(しょそんしょぼさつ)。摩訶般若波羅密(まかはんにゃはらみつ)。」の名を唱えるのであった。
この「十仏名」を唱え終わると、次に雲水のリーダー役が一人でこう唱える。
1.お粥の時(朝ご飯)
「粥有十利(しゅうゆうじょり) 饒益行人(にょいあんじん) 果報無辺(ごほうぶへん) 究竟常楽(きゅうきんじょうら)」
2.ご飯の時(昼ご飯)
「三徳六味(さんてるみ) 施仏及僧(しふぎすん) 法界有情(はかいゆうじん) 普同供養(ふずんきゅんにょう)」
(難しいですよねェー。ご飯を食べる前に舌をかんでしまいそうになります。)
では、1のお粥の偈文は、どういう意味かというと…。
「お粥には十の良い点があり、それが食する人に利益(りやく)をもたらす。その無辺の果報によって、常に安楽となる」とのことで、つまり、「お粥の十の利点」を連記すると「色(しき)、力(りき)、寿(じゅ)、楽(らく)、詞清弁(しせいべん)、宿食除(しゅくじきじょ)、風除(ふうじょ)、飢消(きしょう)、渇消(かっしょう)、大小便調通(だいしょうべんちょうつう)」である。
意訳するならば、1.肌の色つやが良くなる。2.気力、体力が増進する。3.寿命に良い。4.身心が楽になる。5.言葉が清く爽やかになる。6.消化が良い。7.風邪を防ぎ病に良い。8.飢えをいやす。9.喉(のど)の渇きをいやす。10.便通に良い。と、いうように「お粥」の効能を上げ、故に修行者の食事の肝要を説くのであった。(読者の皆さんも、お粥を作って食べてみてはいかがですか!!)
そして次は2の昼食時のお唱えである。この意味は「御飯には三つの徳と六つの味つけがある。それを仏及び修行僧に施し、法界(全ての世界)並びに生きとし生ける者に、普(あまね)く供養を共に同じくする」とのことである。
この御飯の三つの徳とは1.軽軟(きょうなん)。2.浄潔(じょうけつ)。3.如法作(にょほうさ)。のことである。
つまり、あっさりと食べやすく、清潔であり、そして一定の順序、方式の通り作る。いわゆる「真心(まごころ)」を込めて…との意味であった。
そして、六味とは、「甘(かん)、辛(しん)、鹹(かん)、苦(く)、酸(さん)、淡(たん)」であり、1.甘い。2.からい。3.しょっぱい。4.にがい。5.すっぱい。そして最後は6.淡(あわ)いである。
日本食では1〜5までを五味といって調理の基本として、この味を組み合わせて食事を作ることではあるが、禅門流においては、そこに「淡さ」を味として入れている。
これは単なる薄味ということではなくしてその食材そのものの味わいを「淡(たん)」と表現したものであった。
この三徳六味を構成して料理をし、それを仏に修行僧に、そして全ての有情に供養することだと説いているのである。
このお粥の十徳にしても、ご飯の三徳六味にしても、食べ物を「いただきます」との心と意味が込められていることに、読者の皆さんには、お気づきいただきたい。
食べ物は、作って食べさせれば、それでいいというものではない。
食べる側にしても、作ったものを、ただ食べればいいというものではないのだ。
このお粥なり、ご飯の偈文が唱え終わると、続いて、皆さんも聞いたこともある「五観の偈」を同唱するのであった。
「五観の偈」とは、平成24年12月号のパートⅡで、さわやか説法しているが、その意味内容を要約するならば、
一つには、食べ物と私の口に入るまでの、育て作ってくれた人々や自然の恵みに感謝する。
二つには、自分が、それらを与えられる徳を積んでいるか考え、徳を積むようにしよう。
三つには、貪(むさぼ)りの心を離れ、欲ばらず慎んでいただきましょう。
四つには、食べるには良薬の如くにして、体を療ずる為のもの。
五つには、自分の人生の道を成ずる為に、今この食事をいただくことにある。
との五つの誓いを唱えるのであった。
そして、この五観の偈を唱えると、お唱えの終盤戦に入り、更にこう同唱する。
二、三粒のお米を取り、「せつ」と称するミソ汁と漬け物の間にある(写真)平べったい棒の先端にのっけて、こう唱える。
「汝等鬼神衆(じてんきじんしゅう) 我今施汝供(ごきんすじきゅう) 此食遍十方(すじへんじっぽう) 一切鬼神共(いしきじんきゅう)」
いうなれば、地獄で飢えている鬼神、つまり餓鬼にも、私のいただく「ご飯」を、お供え分け与えましょう。
私と共に、あなた達もいただきましょうという「布施の徳行」を示すのであった。
—このようにして—
最後の偈文を唱えるのだが、この時、写真の右側にある応量器の「御飯」が入っている一番大きな器を両手で下から持ち上げるようにして、頭上にいただくのであった。
つまり「いただく」というのは、食べるという意味の「いただく」ということと、頭の上に「いただく」ということでもある。
そうしながら、「上分三宝(じょうぶんさんぽう) 中分四恩下及六道(ちゅうぶんしおんげきゅうろくどう) 皆同供養(かいどうくよう)」と唱える。
これは仏法僧の三宝に分ち、また四恩《父母の恩、衆生(師友)の恩、国王の恩、三宝の恩。》に報い、更には地獄の六道にも及ぶほど、皆なに同じく供養するものである。との思いで食べ物をいただくのであった。
—そして最後に—
「一口為断一切悪(いっくいだんいっさいあく)。二口為修一切善(にくいしゅいっさいぜん)。三口為度諸衆生(さんくいどしょしゅじょう)。皆共成仏道(かいくじょうぶつどう)」と唱え、頭頂にかざしてから、おもむろに一口目を食べるのであった。
御飯を食べるとは、1.一切の悪を誓ってしない。2.いろいろな善きことをします。3.全ての人々の為に尽くします。4.には皆さんと共に仏道を成ずる為に、つまり皆なが幸せになる為に、食事をいただくのです。というお誓いをして食べるのである。
今まで、禅宗の偈文のお唱えを全て紹介して「いただきます」の本質を説法してみた。
この本質から導き出されるところは、「いただきます」とは、単なる食事をする時の、掛け声や合図でないことが御理解いただけたと思う。
人が食事をする時のその恵みに対する敬虔なる心。感謝の心。いたわりの心。誓いの心。慈悲の心と共に、その実践行であるのだ。
その発露が「いただきます」と声に出し、また「合掌」し、手を合わせる心と行動となるのである。
「いただきます」とは、まさに素晴しい言葉なのです。
合掌