和尚さんのさわやか説法183
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 先月号で私は、私の「もっきり」飲み談議を語りながら「もったいない」ということの意味を説いた。
 私は、今現代社会は、この日本独自の「もったいない」文化が消滅しようとしていることに危機感(ききかん)を覚え、今まさに、物の大切さ、食べ物の大切さ、そしてそれらが作り出される「心」の大切さを再構築しなければならないことを説法させていただいた。

 現代社会の家族間や友人間、あるいは地域間での悲惨な事件の連続などの人命軽視の風潮、生命(いのち)の尊厳(そんげん)の喪失化(そうしつか)傾向は、この「もったいない」感、物や生命の大切さ、思いやりの欠除と、あながち無縁ではないと思える。
 生命(いのち)への「もったいなさ」。生きることへの「もったいなさ」。生きていくことへの「もったいなさ」が今、急速に失われつつある。
 私は、この「もったいない」という意味は、単に物質的損失を惜しむ気持だけではなくして、その「もの」の本質を「無」にしてしまうことにほかならないし、「もの」の生命(いのち)自体を「無」にしてしまうことにつながるものと考えざるをえない。
 つまり、自己の生命、他人の生命、自己の存在感、他人の存在感すらも失うことになりかねないのだ。
 今、現代社会にあっての「もったいない」を深く考えなおさなくてはならない時代にきている。
 私達は、社会の中にあって、お互いが関り合いながら、他に依存したり、依存されたりの世界に生きている。
 それは人間社会のことばかりではなく、他の生き物、大地、空気までも含む全ての世界である。
 だから、その中にあって、生きている私達は、この「他」を慈しむ「もったいない」を自身の行動として、自己の心の問題として捉えていかねばならないと思うのだ。

—さて—
 今日から「お盆」である。
 この「お盆」期間の中で、各寺院では「お施餓鬼法要(せがきほうよう)」あるいは「施食会法要(せじきえほうよう)」を営む。(寺院によっては、お盆期間ではなく、別の時期に行うこともある)
 私は、この「お施餓鬼法要」は、前述の側面からみると、「もったいない」意識の仏教行事ではないかと考えてみた。
 そもそも、「お施餓鬼法要」「施食会法要」の起源は、今から2千5百年前、お釈迦様の時代のことである。
 お釈迦様には、秀(すぐ)れた十人の弟子がおり、その中に「多聞(たもん)第一」と称せられる「阿難尊者(あなんそんじゃ)」がおられた。
 ある日、阿難尊者が静かに禅定に入り修行していると、焔口餓鬼(えんくがき)という、やせこけて長い爪(つめ)と牙(きば)をもち、口から火を吐いている鬼が現れて、こう言った。
「アナンよ!!汝の命はあと三日である。しかも汝の死後は餓鬼道に堕ちるであろう。」と。
 阿難尊者は、素直に耳を傾け、その焔口餓鬼に尋ねた。
「では、どうすればよいのであろう?」
 すると、こう叫んだのである。
「夜が明けたなら、我らが苦しんでいる無数の餓鬼に供養せよ。さすれば汝は命ながらえるであろうし、全ての餓鬼も救われるであろう。」
 早速、尊者はお釈迦様に、ことの次第を話され、その指示を仰いで、祭壇を設け、心のこもった飲み物や食べ物を供えた。
 そして十方(じっぽう)の僧を集め供養したところ、阿難尊者は寿命を保つことができ、餓鬼達も救われ極楽に生まれかわったというのである。
 施餓鬼会回向文の中に、こういう一節がある。
「存(そん)する者(もの)は、福楽(ふくらく)にして寿(じゅ)きわまりなく、亡(ぼう)ずる者は、苦(く)を離(はな)れて安養(あんよう)に生(しょう)ぜん」
と、まさに、お施餓鬼供養の端的を示す一文であった。
 阿難尊者は「多聞第一」と称せられる「聞くことのすぐれた」人物なるが故に、地獄の焔口餓鬼の声を聞くこともできたのだろうし、苦しんでいる餓鬼達を救ってもらいたいという真意も聞くことができたのであろう。
 だから阿難尊者の前に現れたのであった。

 この故事に由来し、お釈迦様の心と阿難尊者の浄行が「お施餓鬼法要」として、現代にまで受け継がれてきているのである。
 あの阿難尊者の設けた祭壇は「施餓鬼棚」とも「盆棚」とも呼ばれる。
 つまり、皆さんが家庭やお墓に供える「盆棚」は、それぞれの御先祖様に対しての供養と、もう一つ無縁の餓鬼にも施し供養することでもあったのだ。

 では、なぜお釈迦様も、阿難尊者も、餓鬼に施そうとしたのであろうか。
 焔口餓鬼に脅かされたからやったのか。
 そうではないのだ。
 それには、「餓鬼」がなぜ、「餓えた鬼」と化して苦しんでいるのかを考えてみる必要がある。
 本当に餓えている人達、食べたくとも食べれない人達のことを「餓鬼」とは言わない。
 餓鬼とは、現世において、食べものや物を粗末にし、またあれもこれもと次から次へと欲しがる自己の「限界のない行為」から、その「物」から、「人」から、「人の心」をも傷つけることにより、死後もまた同じことを繰り返している者達を言うのである。
 とするならば「餓鬼を救う」お施餓鬼法要とは、ただ単に食べ物や飲み物を供えればよいというものではなく、私達の慈しみや優しさ、思いやりの「心」を施した食べものや飲みものを腹一杯食べてもらうことにより、彼らの「飢えている心」をやわらがさせ、安らぎを得させんがためである。
 そして、もっとも重要なことは、そのことによって餓鬼が「なぜ自分が飢えているのか」「なぜ、このように苦しんでるのか」の『心の餓鬼』に気づいてもらいたいからである。
 そこに彼らが気づくならば「餓鬼達は救われる」のだ。

 つまり、自らの飢えの本質に気づき、物体(もったい)の本質に気づき、「もったいない」ことの意味を悟った時、彼らは、施餓鬼壇上や盆棚に供えられたものを「もったいない。もったいない」「もったいなくも、いただきます」といって食べてくれるだろう。
 実は、この「もったいない」ことに気がつかなければならないのは現世の私達なのだ。
 私達がそれに気づき、供えるところに「仏法(ぶっぽう)の要(かなめ)」(仏の教えの要)としての「法要(ほうよう)」となるのであり、その餓鬼が救われる功徳力(くどくりき)を、回(めぐ)らしもって皆様の御先祖様を供養することが「お施餓鬼(せがき)法要」であり、「施食会(せじきえ)供養」なのである。

 どうぞ、皆様!!この「お盆」には「もったいない」と思うほどの心をこめた御馳走を仏様にお供えし、そしてお参り終わったら、そのおさがりを一緒に食べてみませんか。
 そのままにして帰ったり、捨てたなら、それこそ「もったいない」ですよ。
合掌