梅翁庵が八戸市小中野へ移転
寛延元年(1748)、常現寺の前身である梅翁庵は、下北郡大畑村の曹洞宗円祥山大安寺三世寿仁州関大和尚により、宿庵として大畑村関根橋に開庵された。
当時の大畑村は、長崎との交易やヒバ材に恵まれて大いに賑わっていた。
しかし、明治の初期には、時世の推移とともに、梅翁庵は名号を残すのみとなって廃庵同様の状態となっていた。
明治26年(1893)、この頃三戸郡小中野村(現八戸市小中野)には曹洞宗の寺院がなく、またお釈迦様の教化聴聞を願う心と、寺院を求める声が高まっており、同村が経済の発展と共に曹洞宗信徒も増加していたことから、本寺大安寺と三戸郡大舘村(現八戸市新井田)の貴福山対泉院両寺互議の上、対泉院末庵として梅翁庵は移転することになった。
明治30年(1897)、寺院用地として現在地が寄進され、同年12月に曹洞宗管長の認許を得た。この頃より寺としての形体が整い、常現寺の『過去帳』は、明治31年から記載が始まっている。
明治32年5月(1899)、八戸湊村出身の西有穆山(にしありぼくざん)禅師から本尊魚籃観音菩薩像、延命地蔵尊像、秋葉三尺坊大士像(現在不詳)が寄進され、奉納安置された。
明治39年(1906)、八戸城下三十三観音札所が選定された折、当庵は二十七番札所となり、御詠歌は、
今あらた 新地をひらく 観世音
現世安穏 後生極楽
と詠まれている。
明治43年(1910)、寺籍移転の諸手続が完了し、6月16日、郷土の名僧西有穆山禅師(大本山總持寺独住三世直心浄国禅師)を開基とし、本寺貴福山対泉院十八世上田(霊山)祖堂大和尚を開山とする新たな一宇が建立された。
下北郡大畑村の梅翁庵は、開創より百年余の星霜を経て、新たに三戸郡小中野村に寺籍を移転し、交趾王山(こうしおうざん)梅翁庵としてこの地で新しい歴史の第一歩を踏み出すことになった。
法地開山 魚籃山常現寺
大正4年(1915)、開山祖堂大和尚の高足で三世の長山(一明)恵三大和尚の代、宮城県栗原郡宮野村にあり、法地格を持ちながら、廃寺同様であった源昌山常現寺を、庵寺である梅翁庵を法地格にすべく、源昌山常現寺を再興するかたちを取り、寺籍移転廃合の届出がなされた。
大正5年(1916)、長山恵三大和尚の晋山(しんざん)とともに山号も改められ、法地格を持つ寺として正式に魚籃山常現寺となった。この時ご尽力された浮木寺二世千葉(泰州)量光大和尚を特請二世としている。
尚、梅翁庵の寺籍は、岩手県宮古市鍬ケ崎に移り、挿鍬山(そうしゅうざん)梅翁寺として法灯が護られている。
その後の常現寺の住職
当寺四世上田(東圓)嶺月大和尚は、東円山海安寺や松峯山心月院を開山するなど卓抜たる力量の和尚であり、学問に優れた人で、大本山で修行僧を指導する単頭及び布教師を努めた。
五世上田(照山)頼石大和尚は、檀信徒育成指導はもとより布教活動に専念されるとともに当寺の境内墓地拡張に多大の貢献をされ、後に本寺対泉院の二十一世に就任された。また曹洞宗宗議会議員の要職につかれている。
六世高山(省三)不言大和尚は、檀信徒の教化育成に尽力し、また自己の参学弁道につとめ、大いに宗風を挙揚された。昭和61年、悲願であった大本堂及び位牌堂の建立を檀信徒の方々と共に実現させ、その偉業に対して曹洞宗管長より緋恩衣(ひおんえ)被着の特許と本寺より「中興」の免牘(めんとく)を賜った。
そして今日、当寺の法灯は、ご本尊魚籃観世音菩薩様の慈光遍くところであり、古今照破する御光にほかならず、歴代住職と檀信徒のお力により今も輝きを増し護られている。