和尚さんのさわやか説法328
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 新年 明けましておめでとうございます。
 寅年の今年が 皆様にとりまして 良き年でありますことを 心より御祈念申し上げる次第です。
 願うことは、ただ一つ!!
 早く早く新型コロナウイルス感染が収束してくれることだけです。
 平穏で、皆さんが笑顔で自由に、往来闊歩できるような日が、早く訪れることを願ってやみません。
 虎さん!!どうか、コロナをやっつけてくれませんか!!
 もう、こうなったら酒飲みの大虎さんでも、小中野は左比代の虎舞さんでも、東京は柴又のフーテンの寅さんでも、何とかお願いしたいもんです。💧💧💧
-てなことで-
「さわやか説法」新春号は、「寅さん」頼みで、書き始めたが、物語は昨年から続いている「牛さん」であり、『十牛図』の完結編「第10図」の入鄽垂手(にってんすいしゅ)である。
 まことに、申し訳ありません。

 この「入鄽(にってん)」の鄽(てん)とは、訓読みでは「みせ、やしき」と読み、ここでは、店舗、屋敷の立ち並ぶ「街」を云う。
 「垂手(すいしゅ)」とは、手を垂れる。つまり手を差し延べることを云っている。
 このことから、「入鄽垂手」とは、人々が生活する街に入って、人々に手を差し延べて救い、安らぎを与えんとすることである。
 『十牛図』における第1図から第9図までは「自己本来の心」、「安らぎの心」を求める物語であったが、その「悟り」の境地に至って、他の人を救い導き、手を差し延べることによって「自己探求の旅」は帰結するというのである。
-故に-
 「第10図」の絵図は、ボロボロの衣服に身を包んだ「布袋和尚」が手を差し延べている姿と、目の前には1人の村人の姿が描かれている。
 一体?これは何を?意味しているのか?

 仏教の起源は、今から約2500年前、お釈迦様の出現による。
 伝説によれば、お釈迦様は、インド北部、ヒマーラヤ山(せん)(雪山(せっせん))のふもとにある「シャカ族」という部族の王子であった。
 幼名は、シッタルダ(悉達多)姓はゴーダマ。この「シャカ族」の出身であったことから後に、この名で尊称されるようになった。
 父は「シャカ族」の王、シュッドーダナ(浄飯王)、母はマーヤー(摩耶)であった。
 お釈迦様は、都城(カピラヴァストウ)の郊外、ルンビニーの花園で誕生されたという。
 その日は、4月8日であった。

-その時-
 大地は鳴動し、天からは甘露の雨が降り注ぎ、やがて雨が止むと雲間から一筋の光明がその幼子を照らした。
 小鳥たちは歌声を奏(かな)で、緑の樹々は静かにそよぎ、その誕生を天地が祝福したというのだ。
-その吉兆を-
感じたのは、当時高名な仙人だった。
「これはぁ~」と唸ると、その方向を目指して歩みを進めた。
 たどり着いた所は、カピラ城であった。
 「尊い赤子が生まれた不思議な兆しを見ました」
 尋ね来たのは、聖者・アシタ仙人ということを知った国王は、早速、喜び招き入れ、幼子のシッタルダ王子の将来を占ってもらった。
-すると-
 仙人は、ハラハラと涙を流したのだ。
「仙人よ!!どうして貴師(あなた)は涙を流されるのか?」
「はい!!この幼子は、もし王位を継承すれば偉大なる転輪聖王(てんりんじょうおう)となり……」
「さもなくば、出家された後、悟りを開かれた『仏陀』(ブッタ)となられましょう」
「きっと将来、覚者たる仏陀になられる。」
「世の生きとし生けるものの苦を滅し、その安らぎの法(ダルマ)を説かれ、人々を導き救われる」
と断言して涙を落した。
「私は、もう長くはない。この幼子が、やがて仏陀となり、法を説かれても…」
「私は、それを聞くことが出来ず……」
「それが悲しいのだ」

-その予言は?-
 アシタ仙人が涙を流した通りとなった。
 29才の時、王子の身分を放棄して城を抜け出し出家を決意した。
 お釈迦様は、比丘(びく)として、はじめにマカダの地にてアーララ仙人、あるいはウッタカ仙人の両師の元で瞑想修行を徹底し、更には断食等の種々の苦行を重ねること6年に及んだ。
-しかし-
 苦行によって、苦を滅することは出来ない。
 「心の安らぎ」は、身を痛めても得られないと感じたお釈迦様は、「苦行林(くぎょうりん)」を離れ、尼蓮禅河(にれんぜんが)という小川で、瘦せ細った自らの身体を浄め沐浴した。
 そこに村娘、スジャータが、山羊の乳粥をお釈迦様に差し出したという。
(コーヒーに入れるミルクのことを「スジャータ」という語源です)
 お釈迦様は、これによって体力を回復されて、その近くにある「ピッパラ樹」の下で、静かに坐り、禅定に入られた。
 この時、苦行体で共にしていた5人の比丘は、乳粥を貰う姿をみて
「なんと?村娘から」
「乳粥を貰うとは…」
「あの苦行は、何だったのか?」
「ゴーダマは堕落した」と言って、お釈迦様を見限って立ち去ったのだ。

-12月8日-
 朝まだき、東の空に輝く「明けの明星」を一見した瞬間のことだった。
 今までの苦悩がすっかり消え、心は大きな喜びに満たされた。
 お釈迦様は、ここに自分が真理を悟ったことを自覚した。
-すなわち-
「ブッタ」(仏陀)が誕生したのであった。
 この事実を「悟り」といい、「成道(じょうどう)」とも「菩提」とも称する。
 ピッパラ樹は、後に「菩提樹(ぼだいじゅ)」と呼ばれるようになった。

-仏陀となった-
お釈迦様は、この「悟りの心」は、自己の内心のことであるが故に人に伝えるべきかどうか躊躇していたが、そこに古代インドの最高の神、「ブラフマー」(梵天)が現われて、こう喩した。
「ブッタよ!!」あなたの目覚めた喜びを、他の人に伝えよ」
「目覚し者よ!!その法(ダルマ)を人々に教え導くのだ」
と、梵天に勧められたのであった。
-そこで-
 仏陀となったお釈迦様は、あの5人の比丘に、その法(ダルマ)を伝えようとして、彼らの居るサルナートという街に向う為に、山を出た。釈迦出山の図
 この姿が、右記の写真であり「釈迦出山(しゃかしゅっせん)の図」とされる。
 着ている衣服はボロボロ、髪もヒゲも伸び放題、胸は痩せこけている。
-でも-
 この図には、お釈迦様の後には、光の輪が描かれている。
 つまり、これが仏陀となった姿を表わしているのだ。

 あの5人の比丘は、ビックリした。
 堕落したゴーダマが光輝いていたからだ。
 皆なは、ひれ伏し合掌し仰ぎ見た。
 お釈迦様は、静かに手を差し延べて笑みを貯(たくわ)えて法(ダルマ)を説かれた。
 これが「初転法輪(しょてんほうりん)」という初めて、お釈迦様が教えを説き、人々の心に安らぎを与え導かんとしたエピソードである。

-まさに-
お釈迦様による「入鄽垂手」の原点であり、原型ではないか!!
 お釈迦様の「自己本来の心」を求めての誕生から苦行の道程、そして「初転法輪」への歩みこそ、『十牛図』における第1図「尋牛」から第10図の「入鄽垂手」までの物語の原典ではないかと、私は思った。

 この『十牛図』物語を、昨年の正月から、本年の正月号に渡って、私は愚考愚説をしてきた。
 読者の皆様には、ここまで御愛読をいただき恐縮にたえない次第でありまする。
 本年もまた、「さわやか説法」を、心よりよろしくお願い申し上げて『十牛図』物語を終ります。

合掌