和尚さんのさわやか説法357
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
師走である。
今年の冬は 寒くなりそうな気がする。
夏は猛暑。冬は厳寒だ。
-夕暮れになると-
暑い時は暑いなりに銭湯に来ては、さっぱりとして キンキンに冷えたビールをあおる。
寒い時は寒いなりに銭湯で ホカホカに温まって、アツアツの燗酒をキュッとやる。
どちらにしても、風呂上がり、銭湯帰りの一杯は まっこと格別だ。
-てなことで-
今月号も またまた「和尚銭湯物語」である。
先月号での「銭湯物語」では「怒られ編」だったので、それとは逆に、「怒りたくなる編」それも「笑える編」である。
-でもね-
実際に私は「怒ったことはありませんよ」。
「怒りたくなる」だけで、静がっごなもんです。だってお互い様だもん。怒らないで笑顔になるのです。
銭湯に来る湯客は それぞれ独自の「お風呂観」というか、自己哲学とも言うべき 自己流の入り方、順序に場所から洗い方に至るまで、所作(しょさ)行動パターンが、決まりきっている。
見事なくらいに……。
-例えばである-
サウナから出るや、水風呂へ直行のある湯客なんかは、入った途端スポンっと自分の体ばかりか頭ごと沈めるのである。
隣りに、誰がいようといまいが関係なくだ。
チャポンと静かに潜る方は、まだいい方である。
ある湯客なんかは 海底にウニかアワビが居るが如くに ドッポンと飛び込み沈むのだ。
そうすると 隣りの私の顔に、水しぶきが掛かってくる。
-でも-
怒りたくても怒らない。私は黙って その水しぶきが掛かったまま静がっこにしている。
たまには、なかなか水面に顔を出さず、素潜り名人みたいな湯客もいて、
「いつまでも上がってこないなぁー」と心配するような方もいる。
ある時だった。
頭の側頭部だけに髪のある中年男性だった 耳に手を当て潜ったのだ。
そうしたらである。その髪が、それも薄い髪だ。水面にワカメというか、モズクというかユラユラと浮ぶのだった。
私は「ウッ」と息を詰まらせ見入っていると、耳を当てた頭がガバッと浮上した。
その時 側頭部の髪がダラリと下がり 頭頂部は水に濡れて光っていた。
私は、またまた「ウッ」と息を吞み、心の中で叫んでいた。
「こりゃあー。」
「河童だぁー!!」
もう、ここまでくると怒りたくなるというより、笑えるのである。
-あるいは-
銭湯に入れば、必ず体操をしたくなる湯客の方々は、結構多いのだ。
お湯で身体が柔くなったせいなのか?
ある方は遠慮がちに、洗い場の隅の方で、迷惑がかからないように屈伸運動をする。
また堂々と、人のことは気にせず没頭する自己陶酔型の方もいる。
こういう方に、怒ったり、注意をしようもんなら、とんでもない恐しい事態が襲ってくることは間違いない。
知らないふりをし、気に掛けないことが銭湯を楽しむ一つの心得であり、コツなのだ。
-くわばらくわばら-
体操好きは床面ばかりとは限らない。湯舟の中でやる方もおられる。
それも湯舟のど真ん中だ。
ある爺さん湯客は、ゆっくりと腰を回し、首も手足も回す。まさに、自己の「体操哲学」の実践なのだ。
それを、私は湯舟に身を沈め見ていた。それもあることを念じてだ。
その念力を注ぐ箇所は、爺さんのとある一点だ。
「首や腰を回すと同時に、あれが時計の針のように回わったらおもしろいよなぁー」
私は一心に「念力」を込めた。
「回れ!!」「回れ!!」「動け!!」「動け!!」
-しかし-
私ごときの念力では、和尚の力を持ってしてもニュートンの「万有引力の法則」には敵(かな)わなかった。💧💧💧💧💧💧
ダラリと下を向いたまま、ビクッとも動かない。
もう、ここまでくると怒りたくなるよりやっぱり、笑えてしまう。
湯客は、爺さんや大人ばかりではない。
子ども達だって銭湯愛好者だ。
特に小さい幼児なんかは、プールのようなもんだ。
銭湯は遊び場でもあり、バッシャ、バッシャとやるわ、泳ぐわ、潜るわと、楽しくてしょうがないのだ。
こちとらが入っていても、お構いなしだ。
ある時だった。
3人の子ども達が入ってきては傍若無人。
私が水風呂に入っていても「キャッキャッキャッ」と戯(たわむ)れる。それが3人同時であるからにして、どんな状況であるかは推して知るべしだ。
相手は幼い子どもだからとて、怒りたくても怒れない。
「こりゃぁー」
「風呂で遊ぶなァー」
とは言えなかった。
思わず出た言葉に、言った私自身もビックリ驚いた。
「いいなぁー」
「元気があって!!」
-そうしたらである-
子ども達の行動が、ピタッと収ったのである。
きっと、その子ども達は自分達のやっている振舞いは分かっていたのであろう。
怒らなくても、誉めてやれば、かえっていいのではないか。
私は、子ども達からそのことを教えてもらったのだ。
怒りたくても、怒らない。笑って誉める。
それが、お互いに楽しみ、子どもも、大人も、爺さんも、皆なが楽しめる。それが銭湯の良さなのだ。
お釈迦様が説示される『法句経』にこんな一節がある。
真実(まこと)の水を
飲むものは
清らなる意(おもい)もて
こころよく眠(ねむ)る
かかる賢者(ひと)は
聖(ひじり)の説ける法(のり)のなかに
つねにこころたのしむ (79)
この一節を意訳してみよう。
真実(まこと)なる水を飲んだ人は、清らかなる心を持つことになる。
だからこそ、こころよく眠れるのだ。
そのような人は、仏の説き示した教えの中で、常に心よく楽しむことになる。
これを、またまた「銭湯物語」に当てはめ超訳してみよう。
お釈迦様は、自分の説示がまさか2500年後の令和の時代、それも「銭湯物語」で無理矢理当てはめられるとは、思ってもいまい…。
トッホッホッホ💧💧💧
まことのお湯や水風呂に入る者は、
皆な清らかなる思いをもって、心よく入り眠る。
そのような湯客は、お湯の神様が溶(と)けるお風呂の中で、
常に、こころ楽しむことであろう。
さあ!!皆さん、この師走。銭湯に行って、温い湯舟にどっぷりつかり、清らかなる心となって、心地よく眠り、常にこころ楽しくなっていただき、来るべき新しい年を迎えてもらいたいものである。
「笑う門には福が来る」
「怒る門には福が去る」
である。
笑って新しい年を迎え、福を迎えましょう。
皆さん 今年一年、さわやか説法を御愛読賜り まことにありがとうございました。
来年も よろしくお願い申し上げます。
合掌
※参考『法句経』友松圓諦訳 講談社学術文庫