和尚さんのさわやか説法363
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今月号も、またまた「声帯が壊れちまった」事件である。
 あの時は、その壊れた声帯を無性に取り替えたくなったことは事実である。
 昔のテレビやラジオは、よく音がでなくなったりすると、あちこち叩いたり、どうしても音が出ないと、どっかの部品を取り替えたりもした。
 そんな心境になったのだ。

 特に対面しての会話とか、電話の声は、しゃがれた声になり、やがて声が続かなくなってしまい、最後には、「ヒーヒー」というような状態になるのであった。
 そうなると、喉の周辺を叩く代わりに、押したり、こすったりするが、ますます悪化するばかりだ。

-それに反して-
 大きく口を開けて、大きく声を出す方が少しは楽であった。
 つまり、御経の方がずうっと声を出すぶんには楽なのだ。
 それに御経は、文言(もんごん)の一文字、ひと文字の発声の間隔をゆっくりと調整できることからも、出しやすい。
 声の通り道を探りながら、通りやすい箇所を見つけて、大きく声を出すことが可能だからだ。

-その点-
 電話とかは、まるっきりそれが出来ない。
小声で、ささやくようにしか言えないからだ。
 御経のように大きな声で話ししたら、相手は、受話器を耳から離し怒ってしまうに違いない。
-あの時は-
 本当に、声を出すことが辛かった。
 お医者さんの言った「10日もすれば、良くなりますよ」に期待して処方の薬を飲んでいたが、一向に改善することもなく、悪化の一途だ。
 私は、最悪のケースを想像し、この10日間の症状をA4版用紙に、またまた時系列に書き綴り、結論として、こう書いた。
1、この声が出ない声帯の異常は、「声帯ポリープ」なのか?
2、あるいは、喉頭ガンとかの「癌」が発生しているのではないか?と……
 その私の書いたA4版用紙に先生は目を通すと、私を安心させるように穏やかに諭(さと)した。
「大丈夫ですよ。」
「じゃあ、もう1回見ますね」
-すると-
内視鏡を覗きながらこう言うのだ。
「声帯の処に、唾液(だえき)が多量に付着しています」
「これは、胃液が逆流しているからですね」
「その胃液は、強い酸であって、それが声帯にまで及んで声が出なくなっているのです」
 続いて言った先生の次の言葉に私は「ハッ」とし青ざめた。
「何か刺激のあるものを食べてはいませんか?」
「それも かなりの間です」
 私は、声を失った。声が出ないからではない。
 その先生の「刺激のあるものを…」
「それも長きに渡り」
の言葉に思い当るふしがあったからだ。

-それは-
「生ビール」であった。それも、缶の生ビールだ。とある大手ビールメーカーの缶の蓋(ふた)が、ガバッと取れる「缶ビール」だ。
 プルタブの「プシュ」とやるやつではない。「ガバッ」と取れる方だ。
 これが、実に旨い!!私は、この生缶(なまかん)ビールに ぞっこん惚れ込んだ。
 これが発売されてから毎日、365日、吞みまくった。
 ただ呑むのではない。
 夕方、銭湯に行く前に 冷凍庫に大きい缶と小さい缶の2種類を入れるのだ。
 冷庫ではない。「冷庫」である。
 つまり、風呂屋で1時間半入っている間にちょうど 凍るか凍らないかの接点を見計い、「キンキン」に冷えた状態にする為にだ。
 これを 毎日、夕食時に「キュッ」とやる。
 凍る寸前までに冷やすと、もう泡は出てこない。これが実にいいのだ。五臓六腑に染みわたる。たまらない刺激だ。爽快感の極みである。
 この時の副食というか、晩酌のお伴は だいたいが、キムチとか、ピリ辛の「麻婆豆腐」であった。

 お医者さんの先生はこう言ったではないか。
「刺激あるものを……」
「長きに渡って……」
-おう-
 まさしく ピッタシカンカンではないか。
 だからこそ 私は青ざめたのだ。

 私は、それを確かめるべく咽喉科の診療が終わるや、その足で、掛かりつけ医の内科病院に向かった。
「先生!!」
「かくかく しかじかですので、胃カメラの内視鏡で調べてもらいたいのです」と、声帯異常の原因は「胃」なのではないかと、咽喉科医師の所見を述べてお願いをした。
「分かりました では診(み)ることにしましょう」
「何日が空いているかな?」と、指定された日に胃カメラ検査となった。
 私は、その検査台に乗る直前に 先生にこんなお願いをした。
「先生、ついでに声帯の周りを視て下さい」
「もしかすれば、ポリープがあったり、癌があるかもしれません」
 すると、先生はこう言った。
「この内視鏡は、胃とか食道を視るもんで、咽喉科のカメラとは違うんですけどね」
「まぁ!!でも、ご希望なら視てみましょっ」
 胃カメラ内視鏡が食道から胃に降り始めた。
 胃に到達してから 先生は胃を膨らまし、丹念に見た後、食道との境界を覗いた時だった。
「これは逆流性食道炎になってますね」と パシャパシャとカメラで撮り始めた。
 その写真は モニターからも 私の目に写った。
「やっぱり そうだったのか……」
「じゃ、声帯と喉を視ますよ」
 私の要望は適(かな)えられたが、実に後悔した。
 それは何故か!!
咽喉科の内視鏡と違って、胃カメラ用は太いのだ。
 それが 声帯の辺り喉の周辺を行ったり、来たりするもんだから「ゲホゲホ」 涙は出るわ、息は出来ないわ、苦しいのなんのって……。
「大丈夫!!」
「ポリープも 癌も、無いよ!!」
 先生の言葉は、むせび涙の中に埋もれて聞こえた。

 咽喉科の先生も、内科の先生も名医であった。
 胃液を緩和抑制する薬を出していただいてから何日もしないうちに声が戻ってきたのだ。

 そればかりではない声帯が壊れてしまった時に「声の通り道」の良い所 悪い所があることに気づいて、お経の唱え方を工夫したことによって 以前より「御経の声質(こえしつ)」が変ったのだ。
 それは母音(ぼいん)の「あ・い・う・え・お」が声の通りにおいてスムーズであるということだった。
 故に、「その母音の出し方を工夫したのである。
 何かしら 御経の唱え方が進化し始めた。

 それと、ピタッと、あれだけ飲んでいた「生缶ビール」は止(や)めた。
 飲めなくなってしまったのだ。
 外にも出なくなり、喉の保護の為と言い訳をして、今は、梅酒のお湯割りを 少しだけ飲んでいる。

 お釈迦様は、言っているではないか!!

身の上に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
語(ことば)の上に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
意(おもい)の上に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
一切処に摂(ととの)うるは善(よ)し
かく摂(ととの)えたる比丘(びく)は
すべての苦より脱(のが)る

(法句経361)

 そうなのだ。
自分の体に 声に 言葉に 心の上に摂生することが、善きことであり、全てに摂えることが大事なのだ。そのように よく摂えた比丘は、すべての苦より脱れることが出来る。……と。

-嗚呼-
 お釈迦様は 不摂生な 不養生な、そして生缶(なまかん)好きの不謹慎な和尚を戒(いまし)めたのだ。
トッホッホッホ💧💧💧

合掌

 ※参考『法句経』友松圓諦訳 講談社学術文庫