和尚さんのさわやか説法297
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 新年 明けましておめでとうございます。
 本年が皆様にとりまして良き年でありますよう心から御祈念申し上げます。
 皆様には、それぞれに家族団欒で、あるいはカップルで楽しく、はたまたお一人で静かに「お正月」を迎える方もおられることと思います。
 どのような形であれ、どのような場所であれ、誰もが「新しい年」を迎え、希望を新たにすることでありましょう。
—それは—
 いつも通りのお正月なのか、波乱の幕開けもあったり、また忘れられない年明けや、思い出深いお正月も、それぞれの胸の中にあることと拝察する次第です。

—昭和49年—
 思い巡らすに、東京は駒沢の地で迎えた一人(ひとり)正月は、今でも私の心の中にある悲しくも笑ってしまうほどの思い出深い「お正月」だった。
 その年、私は1月末が締め切りの大学院卒業の修士論文作成があり、八戸へ帰省し、正月を迎えたくとも、それは出来なかった。
 大晦日の日、私の「薄皮の財布」には5千円が入っていた。
 いつもの月末とは違い珍しく無けなしのお金が残っていたのだ。
 それは、もしかすれば八戸に帰省し、正月を迎えたいということで、ギリギリに残していた汽車賃だった。
—しかし—
 帰らないと決めたからには、正月をボロアパートで迎えねばならないと思った瞬間…。
 私は脱兎の如く地元の商店街に走った。
—そう—
 大晦日の御馳走と正月を迎える準備の為だ。
 家に居れば、その準備を幼い頃から手伝っていたこともあり、大概は分かる。
 まず食材探しだ。
「餅は必要だな」
ということで、小さな神様へのお供え餅と切り餅を買った。
「それと、ミカンだな」
「それに、正月には、やはり雑煮だな」と、
 大根、人参等々野菜もカゴに入れた。
 魚屋では、家での大晦日団欒の時のことを思い出し、「八戸の大晦日は、やはりナメタガレイの煮付だよな」
「それに正月は、鮭の塩引きだ」
 それぞれの魚の切り身を包んでもらった。
—そうなのである—
 家では、いつもナメタガレイは大晦日の定番の料理だとインプットされているもんだから、甘辛く煮付けて、どうしても食べたくなったのだ。
「まあー、何とか料理出来るでしょ」
 そうやって食材探しに目を皿のようにしてレシピを想定しながら歩き回っていると、
—とある所で—
 足がパタッと止った。
 そこは、正月〆縄飾りのコーナーだった。
「そうだ!!肝心なことを忘れていたな」
 やはり、家での正月飾りの風景を頭に思い浮かべていた。
 本堂や玄関には、大きな〆縄飾りが掲げられていたことを…。

 こちとらはボロアパートで「内畠荘」という6畳一間の共同トイレに、風呂は無しの部屋だ。
 あの当時、学生アパートの家賃相場は、1畳が2千円で、4畳半だと9千円であり、月に私は1万2千円を大家さんに払い、水道光熱ガス代が合計で3千円ぐらいだった。 八戸からの仕送りは3万円を送金してもらってたことから、残り1万5千円が1ヶ月の学業代と生活費だったのだ。
—ところが—
 学業代なんてのは、そっちのけで、その1万5千円は酒代と飯代のエンゲル係数100%の消費率だ。
 時折今も、本堂に行った時、その畳の上に立ち6枚の畳を、あるいは4枚半の畳を指でなぞっては、「よくもまあ!! こんな空間で寝起きし生活してたもんだなぁー」と感心することがある。
トッホッホッホ💧💧💧(涙)

—そんな—
 ボロアパートでも、我が家は我が家である。
 正月ぐらいキチンと〆縄を飾り、神聖な気持で迎えたかった。
 値段を見比べ、飾り模様や大きさを確かめながら、どれを買うべきか、迷いに迷うのである。
 まるで、オリの中の熊であった。その〆縄コーナーの前をあっちへウロウロ、こっちへウロウロと歩いては、立ち止まるのだ。
 最も、迷ったのは〆飾りを買うか買わないかであった。
 買わないで、財布に少し余力を残しておくかである。
—結果的に—
 私が取った行動は、有り金はたいて、その金額分の〆縄飾りを買ってしまっていた。
「こちとら、八戸の江戸っ子だい。宵越しどころか、年越しの金は持たないわい!!」
とのワケの分からぬ江戸っ子気質が騒ぐ。
 脳裡には、故郷八戸の常現寺の玄関に飾ってある〆縄が浮び、どうしても買いたい衝動に駆られていたからだ。

 アパートに戻り、まず書き損じの原稿用紙やら、たまりに溜まったホコリを片付け、万年布団を押し入れに戻しての年末大掃除だ。
 そうやって〆縄飾りを我が部屋のドアの上部に飾った。
 それはそれは 見事な〆縄飾りで燦然と光り輝き、ボロアパートの赤茶(あかちゃ)けた壁にあって異彩を放っていた。
—なんと—
—それは—
 大家さんの玄関に飾ってある〆縄飾りより、立派で大きかった……。 ヒェー💧💧💧(驚)

 早速、私は大晦日と正月料理作りに取り掛かった。
 この日は、原稿書きなんてのは中止して正月気分に浸りたかった。
 ナメタガレイは思いのほか上手に煮付けられ、骨やエンガワをしゃぶりながら故郷の味と大晦日の家族に思いを馳せては、お燗の一杯をキュッとあおるのだ。💧💧💧(涙)

 翌日、元旦からは「世の中、正月だろうが、こちとら原稿書きでェいー」と、コタツ机に向かっていた。
—ところが—
 正月3ヶ日も過ぎると、餅や雑煮やら、あらゆる料理が消化され、供えた鏡餅も勿論消化されている。
 そこで取って置きの決め手は、こうなる事を予想して準備していたのが、「カレーのルー」だ。
 余った野菜の切れっ端から、何でもかんでもぶち込んでの「特製カレー」の登場だ。
「うん!!旨い!!」
「なかなか いい味だ。」
 最初の1日目のカレーは、すこぶる美味しかった。
—しかし—
 食べる物はカレーしかなく、冷蔵庫も財布も、中はスッカラカンだ。それが3日目4日目ともなると、
「はぁー。今日もカレーかぁ。……。」と、ため息混じりにスプーンを口に運ぶだけだった。

—そして—
 更に過ぎると、そのカレーすらも食べ尽くし、「なあ〜んも無く」なってしまった。
「腹が減って減って」
 ひもじさが募るばかりである。
 その時、あの〆縄飾りを買ったことを後悔し始めるのだ。
「〆縄買わないで残しておけば、よかったなぁ〜。」
「ワラは食えないしなぁ〜」💧💧💧(涙)
ワラにもすがる思いだが、ワラはやっぱり食べられない……。
「嗚呼……」
 その時だった。「そうだ!!〆縄にはミカンが飾ってあったよなあー」と思い出し、ドアを開けて見上げた。
—その時—
 ガクゼンと肩を落とした。なんと!!そのミカンが忽然と姿を消していたのだ。
 私以上に正月中、ひもじい思いをしていた誰かが、このアパートにいたのだ。……(笑)
 うなだれて部屋に戻ると、仕方無く原稿書きのコタツ机に向った。

—不思議なことに—
—その時だった—
 ドアをノックする音が聞こえた。
 開けると郵便局員が立っていて、現金書留の封筒を差し出しサインを求めた。
—それは—
 母からの書留だった。
急いで封を切ると、そこには「お・と・し・玉」と書かれた祝袋が入っているではないか。
 私は「ウオー」っと雄叫びを上げていた。

「捨てる神あれば、拾う神あり」
「捨てるワラあれば 拾うワラもある」
「盗られる蜜柑あれば拾う蜜柑あり」
 蜜柑は無くとも神を招く〆縄飾りを飾っていたからなのか。
 貧乏学生であっても古里の、お寺に習い、〆飾りを惜しまなかったからこそ、故郷の御本尊様は拾ってくれたのか。
 不憫に想い、救ってくれたのか。

 母からの手紙にはこう書かれていた。
「ちゃんと勉強しているかい……。」
「風邪ひかないで元気にしているかい……。」
「少しばかりだけど、お年玉を……」
私は泣けて泣けて……。
 母親観音菩薩様は、ひもじさの我が子に慈しみの心で包み込んでくれていたのだ。
 そのお年玉を握りしめ、愚かな子はまた脱兎の如く、あの商店街の飲み屋と食堂に走っていた。

—それから—
というもの「運」を神様が与えてくれたのか?運んでくれたのか?
 腹が満ちるばかりではなく、原稿書きは次々と書き上げることができ、結果的にその蜜柑(未完)の修士論文は完成し、合格することとなる。

 私は神仏を拝し、守るからこそ、神仏からの御加護があり拾われることを、あのボロアパートで学生ながら実感していた。

合掌