和尚さんのさわやか説法250
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 新年 明けまして おめでとうございます。
 この新年が皆様にとりまして良き年でありますことを心より祈念しております。
 今年の干支は「午年(うまどし)」であり、十二支の第七番目、方角は南である。また時刻でい えば午の刻は、真昼の十二時であることから、今年は、きっと日照時間が長く、暖冬であり、猛暑であ るかもよと、私は、この「さわやか説法」で予言したいと思う。
—でも—
 これは、あくまでも私自身の推測であって「予言者」ではありませんし、どうぞ当てにせず、はずれるかもしれないと、思ってて下さいね。
 「予言」というより「余言(よげん)」です。余分な余計なお世話の、余(あま)り言葉の「余言」です。トホッホッ…(涙)

 さて、正月号の「さわやか説法」は、そんな予言的なことではなく、「今(いま)」を提示して述べてみることにする。
—というのも—
 昨年の11月号と12月号で「あまちゃん」の「じぇじぇじぇ」を取り上げたものだから、引き続いて、同じく流行語大賞に選ばれた「今でしょ!!」を紹介したくなった。それも禅宗的解釈で、しかも「禅問答」的にである。

 この流行語となった「今でしょ!!」のフレーズを初めて知ったのは、岩手めんこいTV(フジテレビ系列)の「ネプリーグ」であった。
 私は、この番組が大好きで、毎週月曜日の午後7時、チャンネルを合わせる。
 そこで、クイズの漢字の「読み」や「書き方」を初歩的なものから難読(なんどく)難字(なんじ)へとグレードアップしていき、出演者の皆さんが珍読、珍答するのだ。これが実に面白いのである。
 そこに登場したのが、その難字たる漢語の意味を解説し始めたのが、大手予備校の講師である「林修」先生だった。
—そして—
 その解説の後の決めセリフが、
 「いつやるか?今でしょ!!」と手を拡げて出演者に問(と)い質(ただ)すのだ。
 そのセリフがCMにもなり、またいろいろな番組にも登場して、昨年ブレークし、流行語ともなった。

 たぶん、林先生は勤務先の予備校である東進ハイスクールの子供達に受験勉強を教えるのにあたり、「いつ勉強するのか?」「いつ覚えるのか?」「いつ学ぶのか?」と叱咤激励する際に「今でしょ!!」「今しかないんだよ!!」との思いを普段から言っていたのではないかと私は思っている。
 きっと、そこで学ぶ子供達は、林先生のその熱い思いを受け止め、「今、この勉強が大切なんだ」「今、勉強するしかない」と励み頑張っていたにちがいない。
 それが、TVに登場し、世に流行し始めると、社会の中で多くの人々に親しまれ、日常生活の中でも使われていくようになった。

 この「今でしょ!!」は、禅語でいうと「而今」(にこん)のことになる。
 道元禅師は『正法眼蔵大悟の巻』で
 「いはくの今時(こんじ)は人人(にんにん)の而今(にこん)なり。我(われ)をして過去未来現在を意識せしめるのは、いく千万なりとも今時(こんじ)なり、而今(にこん)なり。」と説かれる。 
 つまり、「而今(にこん)」は人人(にんにん)の凝縮した「今時(こんじ)」の一瞬のことであり、ここには過去も未来も、そして現在も、その「時々(じじ)」の「瞬間」「瞬間」に包含しているものであり、それはいく千万あったとしてもその全てが「今時」としての「而今」たる「一瞬」なのだ。

 カメラの「ニコン」(Nikon)は日本の代表的な光学機器メーカーであり、世界の「ニコン」として、つとに有名である。
 このブランド名は、日本光学工業(NIPPONKOUGAKU・K・K)の略称とも、あるいは、カメラの一瞬一瞬のシャッターチャンスを、この禅語である「而今(にこん)」を用いて名付けたともいわれる。
—またまた—
 「而今」は「じこん」とも読むことから、三重県は「木屋正酒造」の銘酒『而今(じこん)』が、有名である。
 余談ではあるが、三重県に布教説法に行った時、あちらの和尚さんより、このお酒を勧められ、それはそれは美味しいのなんのって、キレのあるキュッと喉元にしみる抜群のお酒であった。
 この銘酒も、やはり「今、この時の酒のいのち」「今を懸命に醸(かも)し出す」「一瞬一瞬の酒のキレ味」との「而今」の意が込められているとのことであった。
 酒談議をすると長くなりそうなので…。

—本筋に戻そう—
 この「今でしょ!!」を「而今(にこん)」の教えから述べてきたが、更に道元禅師のあるエピソード(故事)から紐解いてみる。
 道元禅師は鎌倉時代の方である。生まれたのは1200年。今から八百年以上前のことである。
 若き時代、中国(宋)に渡り行脚(あんぎゃ)された。
 天童山は景徳寺にて修行せる時、こんなことがあったという。
 真夏の炎天下に、典座(てんぞ)職(台所係)の老僧が茸(きのこ)を干(ほ)していた。
 「手(て)に竹杖(ちくじょう)を携(たずさ)え頭(こうべ)に片笠(へんりゅう)なし。汗流徘徊(かんりゅうはいかい)すれども力(ちから)を励(はげま)して苔(たい)を晒(さら)す」
 その老僧は、杖をつき、灼熱の中、頭には笠もかぶらず、汗をボタボタと流しながらも、自分を励し茸(きのこ)を干しているのだ。
 「山僧(さんぞう)近前(きんぜん)して便(すなわ)ち典座(てんぞ)の法寿(ほうじゅ)を問(と)う。座云(ぞいわ)く六十八歳。」
 そこで道元禅師は、その老僧に近より、年齢を聞くと、六十八歳であると答えた。(今から八百年前の六十八歳である。当時としては高齢も高齢だ)
 心配のあまり道元禅師は、
 「如何(いかん)ぞ行者(あんじゃ)人工(にんく)を使(つか)わざる」と言った。
 そんなに無理しないで、他の若い修行僧や手伝いの者にやらせたらいいじゃないですか。と聞いた。
—すると—
 「座(ぞ)云く、他(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず」
 老僧は言った。「他人のしたことは、自分のしたことにはならないのだ。」
 これには、若き道元禅師も、ハッと驚いた。
 しかし次にまた老僧を案じて
 「天日(てんじつ)且(か)つ恁(かく)のごとく熱(ねっ)す、如何(いかん)ぞ恁地(いんち)なる」
 いやいや、今日は格別に暑いですし、どうして今、やるのですか。別な時にやった方がよろしいのではないですか、と言うや
 「座云(ぞいわ)く、更(さら)に何(いず)れの時(とき)をか待(ま)たんと。」
 老僧は言った。「今やらずして、一体、いずれの時を待つというのじゃ。」と。
 この老僧の一喝(いっかつ)に道元禅師は絶句してしまった。
 「山僧(さんぞう)便(すなわ)ち休(きゅう)す」と。

 この老僧の箴言(しんげん)である「他は是れ吾にあらず」は、空間的位置での「ここ」を決定する言葉であり、「更に何れの時をか待たん」は時間的位置での「いま」を決定する言葉であった。
 他人ではなく「自分」が、後ではなく「今」であるという瞬間の決定が、先に述べた「而今(にこん)」ということなのだ。

 つまり「いつやるか?今でしょ!!」との林先生の教えの根底は、ここなのだ。
 「いつやるか?」には誰がという問いでもあり、他人ではない、自分が、今やらなければならない。それが勉強だという意味なのである。
 私達が生きているのは、「いま、ここ」であり、その連続であり、「而今(にこん)の現成(げんじょう)」している姿なのだ。「いま、ここ」に全ての存在が現われ成り立っていることだ。
 道元禅師は、まさに、この「而今の修行」を最も肝要とし徹底された。

 今回は流行語の「今でしょ!!」を道元禅師の教えから紐解いてみた。きっと林先生もビックリするだろうなぁー。と思っている(笑)
 どうぞお許し下さいませ……。
 私は、いつもこの「さわやか説法」を執筆するにあたり、〆切を過ぎても書けないでいる。「いつ書くか?今でしょ!!」と言われても、なかなか書けないのが現実である。
 きっとこの状況は、「さわやか説法」が続く限り変わらないと思う。いみじくも、この「予言」は当たっていることは確かなことだ。トホッホ…。(^_^)
 皆様には「今時、ただ今、而今」を大切にし、この一年、大いにお馬さんのように躍動してもらいたいものである。
 今月号で「さわやか説法」は250回を迎えました。250回の「今時而今」の積み重ねです。御愛読ありがとうございます。
 

合掌