和尚さんのさわやか説法235
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 風、薫る季節である。その春の風が心地よくことさらにのどかで、のんびりとさせられてしまう。
—そこで—
 春の代表的な情景を表わす漢詩と言えば…。
 そう!!「春眠 暁を覚えず」の『春暁(しゅんぎょう)』と。いう詩であろう。

 春眠不覺暁
 處處聞啼鳥
 夜来風雨聲
 花落知多少

 この五言絶句の漢詩は、中国は唐の時代「孟浩然(もうこうねん)」(689〜740年)の作で、つとに有名である。
 私自身が、この詩と出合ったのは、高校時代、漢詩を学んだ時であろうか?。でも、それ以前のような気がしてならない。
 小さい時から、大人が「春の朝は暖かくて、気持がいいなぁ…」
 「ついつい朝寝坊しちゃって…。」
 そして次に「しゅんみん、あかつきを おぼえず。ですからなぁ…。ワッハッハ!!」という会話を、毎年春になると聞いていたからであろうか。
 私の頭の中には、この会話が完全にインプットされていた。
 この「春暁(しゅんぎょう)」の読みは「多少」の違いはあっても、こうである。
 「春眠(しゅんみん)、暁(あかつき)を覚(おぼ)えず
  処々(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞(き)く
  夜来(やらい) 風雨(ふうう)の声(こえ)
  花(はな) 落(お)つること
  知(し)る多少(たしょう)ぞ」
と、大概に、このように読むが、この結句の一行の「知多少」は、何通りかの読みがある。これについては後述することにして、この詩の意味するところは、私は、このように教えられた。
「春の眠りは ぽかぽかと心地よくてうっかり寝過ごして、夜が明けたことも気付かない。
 目覚めてみると、もうところどころで、鳥がさえずって啼いているのが聞こえる。
 そういえば、昨夜は風雨の吹き荒れる音がしていたなぁー。
 せっかくの春の花がどれほど落ちてしまったことであろうか。」

 この解釈のインプットにより、私は「孟浩然」さんは「春は寝坊しやすいよ」との感慨を言っていたものと、今の今まで、ずう〜っと、思っていたし、あまつさえ、「朝寝坊」した時の言い訳の論拠としていたのである。
—ところが—
 先月、朝起きて、本堂の戸を開け、朝の太陽を浴びた途端、この漢詩が突然に思い出され、声を出して読んでみた。
 当初は、記憶をたどりながら、言い間違えたり、トチッていたが何回かくり返しているうちに、なんとか思い出していた。
 その時のことである。
 「アレ?この春眠暁を覚えずは、朝寝坊の詩(うた)なんだろうか?…」と疑問をもった。

 私は、一年間を通して朝4時〜5時には、病気でもない限り起きる。
 例え、前晩、チャンチキおけさを歌おうが八戸小唄を踊ろうが、コップや盃を、どれほど上げようが、まず何とか起きることが出来る。
 そして、6時には本堂の戸を開ける。私の寺には東向きに建っているので、その戸を開けると東の空に向かって、お陽様の方向に対して、手を合わせて拝礼することが常の行いであった。
 冬は、まだ太陽が上がっていなく、真暗である。それが春になってくると、お陽様の顔が見え始め、もう5月ともなると空高くにある。
—つまり—
 春の夜明けは早く、いつも通りの時刻に起床したとしても、冬と違って既に明るくなっているのであって、決して寝過ごしているのではないのだ。
 きっと「孟浩然」さんは、朝寝坊のことを言わんとしたのではなく、「春の朝」の速やかなる時間と、その情景を表現したのである。

 「春眠、暁を覚えず」とは、
 「春の暁は、本当に速いなぁー。夜明けに気付かないほどだ」とのことを言いたかったのではないだろうか。
 「心地よくて、うっかり寝過ごした」わけではないのである。
—でも—
 そればかりのことでもなさそうである。もっともっと深い意味がありそうだ。
 その『謎解き』は、ディナーの後まで待っていられないので、この「さわやか説法」で試みることにしよう。
 その解く「鍵」は、文体構成の「起承転結」のあり方と自然の情景の対比である。それをお叱りを覚悟の上で仏教論的解釈で、「嵐」の「櫻井翔」氏が演ずる「影山」よろしく私、「高山」和尚が謎解くことにする。
 起承転結とは、第1句の起句で内容を歌い出すことであり、つまり「問題提起」のことである。第2句はそれを承け、第3句の転句で詩意を一転させて、我々読者を驚かせ、第4句で全体の詩意の結論に導くというものである。
 では「春暁(しゅんぎょう)」のタイトルからの第1句の問題提起は、どの言葉であろうか。
 それは「春眠」ではなくして「不覚」(おぼえず)であり、そして、第4句の全体の結論の語句は「知多少」であると思わざるを得ない。
 ここでの「多少」とは日本語的な「多い少い」との意味ではなく、数に対する疑問詞あるいは感嘆詞であって、「どれぐらい」とか、「どれほどの」との意味を言うのである。
 そこで「知多少」も色々な読み方がある。
  1.知る多少ぞ
  2.知(し)んぬ多少ぞ
  3.知りぬ多少ぞ
  4.知らず多少ぞ(不知多少の略の疑問詞)etcがあり、
 これら全ては、「花はどれほど散ったことか。」と訳す。(※皆さんは、どういう読みで学びましたか)
—つまり—
 この起承転結構成の漢詩の主体を「春の朝」と見るか、その朝を迎える「自分」と見るかで違ってくるのである。
 「自分」であるとすれば起句の要は「覺(かく)」であって、結句の要は「知」なのである。
 即ち「自己」における「覺知」を問い掛けていると思うのだ。
 その覺知の問題とするのは何か?
 それは情景とその表現の対比から導き出される。朝と夜の情景の対比。また、「晴」と「嵐」。「眠」と「風雨」から「穏」と「乱」。「聲(音)」と「聞」。「花」と「鳥」。とかが上げられる。
 これらの情景を更に記述すると、その背景に、何かがあると推測される。
 「春眠」、「處々」も「啼鳥」も、「夜来」「風雨」そして「花落」も全ての情景表現は、『無常』なるものなのだ。
 言うなれば「無常」の理(ことわり)、無常の真実(しんじつ)を「覺知」することが、根底にあるのではないだろうか。
 だから「知多少」は「どれほどあるか 知っていますか」との問いなのである。
 そう考えるならば、「不覚」の「おぼえず」は「気付かない」のではなく、「目覚めない」あるいは「覚(さと)らず」との意味として解釈すると孟浩然さんは私達に「無常の真実に目覚めなさい」「無常の理(ことわり)を覚(さと)れよ」との教えであると受け止めることが出来る。
 つまり、刻々たる時間の変化とその自然の情景の常ではないことを通して、私達に「無常」そのものを示した漢詩であって、「寝坊」のことではないことは確かなことである。
 即ち「春眠、暁をさとらず」と読めば、仏教的解釈ともなるのだ。 

合掌

  
※東川篤哉氏著作の『謎解きはディナーのあとで』のタイトルをもじりましたことお許し下さい。