和尚さんのさわやか説法232
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 お釈迦様の説かれた「法句経」の一節に

  すべてのひとは
  幸福を好む
  されば
  おのれ自(みずか)らの
  たのしみを求むる人
  もし 刀杖(つるぎ)をもて
  他人(ひと)をそこなわば
  後世(のち)に
  たのしみあるなし
     (法句経131)
とある。
 この一節を現代文に訳するならば、
 この世の全ての人々は、誰しも幸福を願い求めている。
 だから、自分自身、幸福を願い求めるならば、決して刀杖(つるぎ)、つまり暴力で、人を傷つけてはならない。
 もし傷つけ害(そこな)ったならば、後世に決して幸福にはなりませんよ。との教えであった。
 この説示は、2500年前のお釈迦様の時代はもとより、現代にても同じことが言える。
 決して「昔むかし」のことではないのだ。
—だから—
 私は、かの有名な「昔話 桃太郎」のことを先月号の「さわやか説法」で取り上げてみた。
 このような法句経の教えから、「昔話 桃太郎」を考察すると、桃太郎の物語は「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」を推奨するものではあるが、まるっきり相反する物語といえるのではないだろうか。
 私達日本人は「桃太郎」が好きで、誰もが幼い頃から、よく聞かされ、本で読んだりして、小さな頭に完全に刷り込まれている。
 「桃から生まれた桃太郎は『善』であり、鬼は『悪』であるとし、かつまた『鬼の財宝』を、懲らしめ奪い取って、おじいさん、おばあさんに与えて、皆な幸せになったとさ…。めでたし、めでたし」と、教えられてきた。
—しかし—
—しかしですよ—
 鬼は、全てが悪人であろうか?
 善良な鬼であるかもしれないのだ。
 更に「鬼の財宝」だって、鬼が一生懸命働いて蓄財したのかもしれないし、あるいは村人から奪い取った財宝だったら、村人に返して上げるのが本筋であって、おじいさんやおばあさんに与えて「恩返し」したのであったなら、それこそ鬼と同じで略奪したことになるのではないだろうか。
—そんなことで—
 私は、和尚としていつも疑問に思っていた。お釈迦様の教えに照らし合わせてみるならば否定せざるを得ない、と。
—実は—
 その疑問に答えてくれ、疑問を解消させてくれたのが、先月、九州福岡からの帰りの飛行機の中で聞いた「落語版桃太郎」だったのだ。
 まことに、この落語版の物語は面白かった。
 ここに登場するのは父親とケン坊という子供である。
 父親がケン坊を寝かしつけるに、布団の枕元で、この「昔話桃太郎」を語り始めるのだが、なかなか眠らないし、あべこべに反論されて、父親がタジタジとするのだ。
「昔むかし」と語ると「いつのこと」と聞かれるし、「あるところに」と言うと、「それはどこ」と訊ねられる。
「おじいさん、おばあさんがいました」と続けて言うと、「なんという名前なの?」と逆襲される。
 父親は、グッと詰まって答えられないと、ケン坊が教え諭(さと)して、「それはね、昔むかしあるところに、おじいさん、おばあさんがいました。というのは、わざと年号を設定したり、場所を限定しないのであって、それは、いつでも、日本中どこでも、誰にでも聞かせられるようにとのことなんだよ」と説明するのであった。
「そしてね、おじいさんが山に、お婆さんが川に。という意味は、父の恩は山よりも高く、母の恩は川とか海よりも深いということなのさ」と、更に言うと、もう、父親はケン坊の見解に感心するばかりで「へェーそんなんですかぁー」と唸ってしまうのだ。
—続いて—
「桃が川上からドンブラコードンブラコーと流れてきて、桃から生まれた桃太郎というのは、子どもは皆な天からの授かり物という意味なんだよ」
「お父っつあん!!わかったぁー」
「へェー!!分かりましたぁー」
「それからね、犬(いぬ)と猿(さる)と雉(きじ)の三匹のお伴というのは、犬は三日飼われたら一生恩を忘れないという、仁義に篤い動物で、猿はね、とても賢くて智恵がある動物なのさ。そして雉は、子供の卵(たまご)や雛(ひな)を守る為には自分を犠牲にしてまでもという勇気がある鳥なんだよ。そのことから犬(いぬ)、猿(さる)、雉(きじ)をして『仁(じん)・智(ち)・勇(ゆう)』の三つの徳を表してるんだ」
 このケン坊の説得力に父親は、タジタジを通り越して頷くばかりであった。
「そして、桃太郎は鬼ヶ島に行くでしょ!!
 あれは『渡る世間は鬼ばかり』と言って、世間を渡るには、いろいろな困難があって、それを乗り越えるには仁、智、勇を持って切り開くということなんだとの喩えさー。」
「そこで、鬼の財宝というのは宝物ということではなく、困難を克服して得る「宝物」ということであって、人間としての思いやりや優しさの心のことを言うんだよ!!」
「それを、お爺さん、お婆さんのところへ帰って、自分の気づいたことを報告するということなんだね」
 もう父親は、ケン坊の物語に感心するばかりであった。
「それでね。お爺さんお婆さんは、桃太郎の話を受けて、心から喜ぶんだよ」
「だから、皆なが幸せになって、めでたし、めでたし、で終わる物語ということさ」
「つまり、人としての幸福の心のことを表している物語が、この桃太郎なんだよ」
「ねェー。分かった!!お父っつあん!!」
「ありゃまあ!!静かだと思ったら、スヤスヤ寝ちゃってるよ」
「ホント、今どきの大人って罪がないねェ…」
 と、最後にオチが着いて「落語版桃太郎」は終わるのである。

 この落語版桃太郎は原作を見事に脚色して、私達に「人生訓」としての物語に仕立て聞かせてくれている。
「落語版桃太郎」の桃太郎は、鬼を退治したのではなく、桃太郎の思いやりと優しさで「改心」させたのであろう。決して刀杖(つるぎ)を振ってのことではなかった。人を害(そこな)わしてのことでないのだ。
 今年も、あともう少しで、新しい年を迎えます。本年は3月11日の「あの日」より苦難の年でありました。
 その苦難を乗り越えるには「刀杖(つるぎ)」ではなくして、「優しさと思いやり」であり、人々の「絆(きずな)」を大切にすることではないでしょうか。
 どうぞ、皆様にとりまして、新しい年が幸福であることを心より祈念いたします。

合掌