和尚さんのさわやか説法223
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 もう年の瀬である。何と1年の立つことの早いことか!!
 今年も残すところ、あと10数日となってしまった。
 「光陰矢の如し」月日は私達の思惑なんぞ、何のおかまいもなしに、さっさと過ぎていく。全ては「常では無い」のだ。
 その「無常」なる世界に私達は生きている。
 常では無いからこそ人は生まれ、そして死す。その中に喜びもあれば悲しみも、苦もあれば楽もあり、楽もあれば苦もある。
 あるいは海老もあれば蟹もある。「にらみ」をきかせば、にらまれる。
 灰皿にテキーラを入れて飲めと言われれば「敵(てき)ーら」を作る。
(※何だか論調がおかしくなってきました。ワイドショーの感化を受け過ぎです💧💧💧)

 さて今月号の「さわやか説法」は年末にちなみ、その行事や風習そして、その由来について考えてみたい。
 そう!!大晦日特集号としよう。
 素朴な疑問として、12月31日を「大晦日」と表記し、なぜ「おおみそか」と言うのか?
 そしてまた、その夜を何故に「除夜」と呼ぶのか?「夜を除く」ってどういう意味なのか?
 あるいは、その除夜の日に限って、大梵鐘のある寺院では百八つの鐘を打つ。いわゆる「除夜の鐘」である。
(※御本山とか修行道場では、毎日、朝の座禅中に百八声を静かに鳴らしている。)
 では、その百八声に、どんな意味があり、どんな内容があるのか?
 それらの項目を分かりやすく面白く説いてみることにしたい。

 まず最初に12月31日は、なぜ「大晦日(おおみそか)」と言うのであろうか?
 それには、ヒントとして日にちの数え方というか、呼び方から始めることにしよう!!
 皆さん!!「十日」「二十日」は何と呼びますか?
—そう—
「とおか」「はつか」ですね。だから「三十日(さんじゅうにち)」は「三十(みそ)」の日ということで「みそか」であるわけだ。
 そのことから旧暦(陰暦)では、毎月の最終日の三十日を「晦日(みそか)」と言い、一年の最終日「大(だい)」を付けて「大晦日(おおみそか)」と称したのである。
 また、大晦日を「大(おお)つごもり」とも言う。「つごもり」とは、晦日(みそか)の別名であり、月なく暗きことより「月隠り(つごもり)」が転じたものであった。
 このことから、毎月の日(ひ)にちを数える呼び方に、今までの気がつかなかったことに気づいた。
 月始めの第一日目を私達は「ついたち」と呼ぶ。これは、先程、「三十日(みそか)」を月の終りで暗き故に「月隠り(つごもり)」であると説いた。そこで、「一日」は、こもっていた月が出始め、立つことから「月立(つきた)ち」であり、故に「ついたち」と言うのである。
 さっき十日、二十日、三十日を「とおか」「はつか」「みそか」と私達は言い表わすと述べたが、もっと面白いことに気がついた。
 二日〜十日までを私達は「ふつか、みっか」そして「とおか」と言うが、次の十一日〜十九日からは「○○か」と言わず、「○○にち」と言う。そして「三十日、三十一日」は、現在は「みそか」と言わずに「さんじゅうにち」「さんじゅういちにち」と言うから不思議である。
 まあ、日にちの呼称はこの辺で終りとして、次に「大晦日」の夜を何故「除夜」と言うかである。

 この「夜を除く」とは、「旧(ふる)い年」の最後の夜を除くとのことである。
 旧い年を除くこの夜は氏神様を祀る神社に、あるいは御本尊の御寺に詣でて、新しき年を迎える為に籠もり、一晩中起きているということが本来のことなのである。
 例え、神社仏閣に詣でなくとも、それぞれの家庭にある神棚や御仏壇の前で静かに旧き年の夜を除き新しき年を迎える「二年参り」をすることが「除夜」の意味であるはずが、現代は何だか全国民の公認された「夜更(よふか)しの日」になってしまい、子どもから大人まで皆なが皆な、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをすることが「除夜」と勘違いする人達のナント多いことか!!
 除夜に床に入ってるのは酔いつぶれか、騒ぎ疲れた子どもぐらいであろうか。
 かの「海老蔵」さんなんかは、あの事件の日は、夜中の11時半に家を出て朝方まで飲んでいたとのことで、まさに「除夜」をしてしたわけだ。
 それも神社仏閣には行かず、西麻布の高級バーに詣でて、拍手(かしわで)を打たずに、平手(ひらて)や握手(にぎりて)を打たれたんだな……。 (またまたワイドショーの感化です💧💧💧)

 鐘の音は「無常なる理(ことわり)」の響きである。「ゴーン」と鳴って、やがて余韻を残して消えていく。
 その響きは仏の声であり、その鳴り続ける鐘音は「生じては滅していく」「滅しては生じていく」仏の教えの姿でもあった。
 故に旧(ふる)き年の自己を懺悔し、新しき年に清らかな心で迎えたいとの「減除煩悩」の願いでもあるのだ。
 「除夜の鐘」の起源は中国・宋の時代(960〜1279年)であり、日本へは鎌倉時代に伝来されたという。
 その鐘は「百八声」撞くのだが、その由来は、人間には「百八つの煩悩」があるとされている。
 この百八つの意味は単なる数字ではなく、「沢山」というか「無限」の意味であると私は思っている。
—でも— しっかりとその由来を提示したい。
 1.煩悩の根源は、私達の身(み)と心(こころ)から生ずることから、人間の感覚である六根「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)」を源(みなもと)とし、これに好(こう)(好きだ)と悪(あく)(嫌だ)と平(へい)(どちらでもない)の三種類があり、それぞれに浄(じょう)と染(せん)の二種類があり、以上に過去・現在・未来の三時があって、これらの合計が百八つなのである。
 つまり右記を数式に表せば、6×3×2×3=108なのだ。
 2.あるいは一年間を表すこととして、月の数12、立春などの二十四節気の数の24、七十二候(一年を72に分けて5日または6日間を一候とした時候の変化)の72の合計が108とする説。
 3.また、俗説の中の俗説。人間の四苦八苦を取り払うということで、まさに数字のダジャレ掛け合わせである。つまり、四苦八苦を四九八九(しくはっく)として(4(し)×9(く))+(8(はっ)×9(く))=108としたのである。
 まあ。今年の流行語でもあった「ととのいましたぁー」でありましょう。
 まだまだ諸説がありそうだが、ともあれ「除夜の鐘」は、その名の如く「除夜」に撞(つ)くのであり、旧(ふる)き煩悩を清らかにすることなのであるから、旧年中に撞き終わらなければならないことは明白である。
 すなわち、107回を旧年中に撞き、新年となる、午前零時と同時に最後の一声を打つのであった。
 ところが、私達は、NHKの『ゆく年くる年』が紅白歌合戦の終了の11時45分からの放映を見ての影響か、そこから始まり、年を越しての夜中じゅう撞いているものと錯覚している人も多い。
 近年は御寺院方の御慈悲と思いやりで、おいでになる皆さんに年を越しても撞かせてはいるが、本来は前述した通りなのである。
 どうぞ読者の皆様には、旧年の煩悩を除き、よき「大晦日」であり、よき「お正月」、「新年」を迎えてもらいたいものである。
 煩悩多き方は、新年から「一から出直し」あるいは、初心に立ち返り「いろはから学べば」と思う。
 さしずめ、私は海老蔵さんにこう言いたい。「君はABから出直し、ABから学びなさい」そして「ZOで終わりなさい」と……。(最後までワイドショー説法になってしまいました。トホホッホ)
 どうも私、高山和尚が一番煩悩が多いようです。旧年を懺悔、反省するばかりです。💧💧💧
 皆様、来年も「さわやか説法」をよろしくお願い致します。旧年中はお世話になりました。ありがとうございます。

多謝合掌