和尚さんのさわやか説法220
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 カンダタは、「何だか無性に、皆なの為にしたくなった」「苦しんでいる皆なを見ていて、そのままにしてはおけない」との心になっていた。
 それは、自分もいろいろな苦しみを体験し分かっているからだ。自分の苦しみを、他の人には味あわせたくない。皆なに温かい手を差し伸べてやりたい気持でいっぱいになっていた。
「上がれや上がれ!!」
「この糸は、お釈迦様の糸だぞ」
「黙って、すがっていれば、上(のぼ)りきることが出来るんだぁー。」
「決して、自分だけが救われようとか、上(あ)がればいいや!!なんて思うんじゃねェーぞぉ!!」
—そう—
 カンダタは、皆なを思う慈悲の心であふれ喜びに満ち、そして、今までの「俺が俺が」との自分だけの「自己中(じこちゅう)」の心を捨てていた。
 この「慈悲喜捨(じひきしゃ)」の四つを「四無量心(しむりょうしん)」といって、この無量なる心は「菩提心(ぼだいしん)の行願(ぎょうがん)」というものだったのだ。
 つまり、菩提心とは「仏心」であり、仏道、また菩提を求める心、あるいは自己の真実なる心であり、「お悟(さと)りの心」のことである。この菩提心の具体的な行動(修行)が「慈悲喜捨」の実践行であった。
 この四つの無量の心は、それぞれが大切な心であり、互いにそれは包合されている。
 でも、この中で特に大切なのは、「捨(しゃ)」の心であった。
 人間は誰でも「自分が可愛い」「他よりも自分だけは」という心を持っている。自己執着の心は、誰にもある。
 カンダタは、それを地獄の中で「くもの糸」に何度もぶら下がっては落ちて、初めて気がついた。
 その自己執着の心を捨てることを、いや、皆なを救いたいと思った時に、もはや捨て去っていたのだ。
 「捨無量心(しゃむりょうしん)」とは、執(と)らわれず、傾(かた)よらず、他と同じ心になることであった。
 何故ならば、それが人間本来の真実なる「自己心」であるからである。
—実は—
 カンダタは地獄で気が付いたと言ったが、生きていた時、たった一回だけではあるが、本人は気づかないままに、その心があった。
 それは、カンダタが村人達から追い掛けられていたあの草むらで倒れた時のことであった。目の前に一匹の蜘蛛がいた。
 カンダタは一瞬、その蜘蛛を踏み殺して、そのまま逃げようと思ったが、「このクモにだって生命があるよな。」と思い止まり、その蜘蛛を草むらに返してやった。
—あの時—
 カンダタは、他の生命を思いやった「慈悲の心」が確かにあったのだ。

 そのことをお釈迦様は、ちゃんと見て分かっていたのだ。
「カンダタは、極悪非道の限りをつくした人間であるとしても、心の奥底には、人間本来の美しい心がある」ということを…。
 だから、お釈迦様は「くもの糸」を垂らし、カンダタを救わんとした。
 でも、当初はカンダタは気がつかなかったが、とうとう、その「くもの糸」の意味を知ったのだ。
 この糸は、皆なの糸であることを!!自分だけの糸ではなかったことに…。
 その時、まさしくカンダタは「慈悲喜捨の無量なる心」となった。それは「極楽の心」そのものだったのである。
 その時、カンダタのいた「地獄」は「極楽」となった。
 お釈迦様は極楽の蓮池を通して、そのカンダタの姿を、そして心の中までも見透かしていた。
「やはり カンダタは気づいてくれたか!!」とニッコリと笑われた。
 なんと、お釈迦様は極楽となった「地獄」にいたのだ。
 でも、皆なは、それに気がつかない。

 あの地獄は、極楽となったのだから、皆なは極楽に上(のぼ)る必要がないのだろうか。もう上がるのをやめたのであろうか?
—実は—
 カンダタは、くもの糸に皆なを上らせることを止めなかった。
 それはなぜか!!
 「くもの糸」は、相変らず、上から降りていたからである。
 極楽となった地獄にお釈迦様が今、いるにもかかわらずだ。
 あの蓮池から、現実に下がっているのである。
 カンダタは、皆なを救うことを止めれなかった。いや、むしろ、救うことが、彼の究極の心情になっていた。
 それは、地獄が極楽に変わっていたことを知らない者達が大勢いたからである。
 ここは、もう極楽になっているのに、昔のカンダタと同じく「自己中」の「俺だけが俺だけが」と思っている者達がいるからである。
 カンダタは、気づいてもらいたいと願い、「決して、俺様の糸だぁー。なんて言うなよ!!」と励ましていた。「ちゃんと気づくんだよ!!この糸は皆なの糸だよぉー」
—なんと、以前、お釈迦様がカンダタに言っていた言葉と同じであった。—
 まさしく、カンダタの心は、お釈迦様の心と一緒になっていたのだ。
 その時のカンダタには、地獄にいたお釈迦様の姿が確かに見えていた。ニッコリと笑っているお釈迦様の姿が…。

「おいおい。カンダタの姿が光って見えるぞぉー」
 誰かが感嘆の声を上げた。
「本当だぁー。カンダタがまばゆいばかりに光っている」
 誰かが手を合わせた。
 地獄にいる皆なが、「くもの糸」に上らせているカンダタの側に駆け寄り、一様に手を合せては、涙し身を震わせていた。
—そしたらである—
 皆なは、カンダタと同じように、他の人達を上らせようとしたのである。
 皆なが皆な「上がれや 上がれ」
 上る者も、下で支える者も、皆が一緒に掛け声を合わせて
「皆なの糸だぞぉー」って…。
 皆なは、上っていった。上りきっていった。そして、やがて地獄には誰もいなくなっていた。
 上っていた連中はたどり着くと…。
 驚いたのなんのって!!
 なんと、その光景は今までいた「地獄」の光景であった。
 何も変わってはいなかった。
 上っていたつもりでも、元の世界に戻っていただけのことであった。
—でも—
 あの殺伐とした光景ではなく、光り輝き、安らぎと慈しみに満ちあふれているように皆なは感じていた。
—そして—
 皆なは、誰もが目を見張った。
 あの地獄のエンマ大王は、なんと、「お釈迦様」だったのである。
 あの地獄の鬼どもはなんと「菩薩様」だったのだ。
 そしてまたカンダタは、菩薩の姿となっていた。

合掌

 ※悪たれ川流之介版「くもの糸」のその後のその後でありました。原作者の芥川龍之介先生には、勝手なる展開をしてしまい深くお詫び申し上げます。(涙)