和尚さんのさわやか説法157
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 八戸の生んだ名僧、いや近代日本の高僧中の高僧とも称せられる方が「西有穆山」その人である。
 この度、10月25日より八戸市美術館に於いて「郷土が生んだ高僧 西有穆山展」が開催される。(詳細は後述)
 そこで、今回の「さわやか説法」では、この墨跡展にあやかり、西有穆山禅師の出生を尋ねながら、穆山禅師は、なぜ? 自らを「西有」と名のったのであろうか。を考えてみたい。

 穆山禅師は、江戸・文政4年(1821)現在の八戸市湊町本町界隈で豆腐屋を営む、笹本長次郎、なお夫妻のもとに出生された。
 と、いうことは素朴に考えるならば、禅師の姓は「笹本」であるはずなのに……?
 それとともに、禅師は、なぜ?仏門に入り出家しようと決意なされたのか。
 その素地たる起因を求めていくならば、禅師の幼少期からの「人を思いやる 慈悲深い心」に満ちあふれた人物像が露呈されてくるのであった。

 先にも述べたが、父親笹本長次郎は、ほとけ長次郎と言われるほどのお人よしで、働き者であったという。
 やがてお嫁さんを迎え、男の子が誕生したのではあるが、病気がもとで、そのお嫁さんは亡くなった。
 ほとけ長次郎は悲しみの淵にありながらも父の手で、男手一つでその子を育ててはいたが、縁あって、人にすすめられ、二十六日町西村家から後添え(のちぞえ)を迎えることとなり、母「なお」のもとに誕生したのが、「万吉」と名付けられた、後の穆山禅師であった。
 万吉少年は、ほとけの長次郎、なお夫妻そして先妻の子である兄と共に、すくすくと成長し、小さいころから異彩を放つ子供だった。
 そこで母の実家である西村源六家には男子の跡とりがおらず、万吉少年に、その白羽の矢が立ったのである。
 3歳にして、伯父夫婦の養子となったが、万吉6歳の時、その西村夫婦に男の子が誕生したのであった。夫婦の喜びはこの上もないものであった。
—しかし—
 万吉は6歳といえども、多感で思慮深い少年であった。自分はこの家に居るべきではないと察知し、誰にも言わず一人、トボトボと湊方面に向かって歩き出したのであった。
 もどってきた万吉を見て、母なおはビックリすると同時に、どうしてもどってきたのかと尋ね、この小さい子がよくそこまで考えていたかと思うと、不憫でならず、思わず抱きしめたのであった。

 万吉は、実母のもとで、毎日が楽しくてしようがなかった。ヤンチャをして怒られても楽しかった。母としても、先妻の子も同じく可愛がってはいたが、お腹を痛めた万吉に、どうしても愛情が偏る。近所の人達や親類の者まで、利発で活発な万吉の方に眼が向く。やがて、皆は「長次郎さんの家の跡取りは万吉で決まりだな!!」と噂し合った。
 それがまた、ピンと敏感で思いやりのある万吉の心に響いた。「わしが家にいては、兄さんが跡をとることが出来ない」 「兄さんが可愛そうだ」と、小さな胸を痛めるのであった。

—そして—   文政12年(1829)万吉、9歳の時であったという。
 母なおに連れられて母方の菩提寺、十一日町の願永寺にお参りした。そこには「地獄・極楽」の掛け軸がかかっており、母に手を引かれて、こわごわとその軸を仰ぎ見た。「母様(ははさま)、これは何でありますか。」 「これはね。地獄の様子が描かれた図だよ。」 「ここは、悪いことをしたり、お前のようないたずら者が、死んだらゆくところです。」と、万吉に向かって諭し、思わず万吉は眼を伏せ、身を強張(こわば)らせたのであった。
 次に、上の方に描かれている天女が舞い、仏菩薩がおわす方を指さすと「あちらの方は何でしょう?」 「ここはね、極楽といって、平生よい事をした人が亡くなったら行くところだよ」
 その母の言葉を聞くと、万吉はしばらく「じぃっー」と考えていたが、「じゃ、母様はどちらに往かれるの?」とたずねた。

 母は、万吉の顔をのぞきながら、笑顔でこう語ったという。 「そうねェ。きっと地獄へゆくだろうよ」 「えー、母様が」 「どうしてどうして」 「それはねェ。お母さんは決して悪いことはしまいと誓ってはいても……。」 「お前の可愛さに、知らず知らずに小さな罪を沢山作っているだろうよ」 「だから、きっと地獄に行くことになるだろうね」 と、告げられたのであった。
 母への思いが強い万吉は涙を滲ませながら 「じゃ、どうしたら、母様は極楽に往けるのですか?」 と聞いた。 「御仏(みほとけ)様は、一子出家(いっししゅっけ)すれば九族天(きゅうぞくてん)に通(つう)ず。と言われ、一人の子供が仏門に入れば、両親はもとより親類中が、極楽に生まれ変ると仰せられております。」
 このことが、また多感な少年の心にガチンと響きが立ったのである。

—まさに—
 穆山禅師幼少の万吉の仏門に入る決心の動機となる起因の厳句(げんく)はこの母の言葉であり、その素地の土壌は、養子先の跡とり息子を、また養父母を思う心やりでもあり、先妻の兄さんに父様(ちちさま)の跡をつがせねばならない。という小さな胸を痛めた慈悲心の発露であったのだ。
 そして今、愛する母様を極楽に行かせるには、どうすればいいのか。その答えが即ち「出家」することにあったと気づかされたのである。 「坊さんになりたい」 幼な心に万吉は、自らに言いきかせ決意をされたという。

—しかし—
 その決意を両親に話はしても、小さな子供の言うこととして、とりあってもらえなかったが万吉少年の決意は微塵も揺るがず、かえってますます増幅していくのであった。
 時にその機縁は熟し、13歳に万吉は成長していた。
 両親は、その願いをとうとう諦め、聞き入らざるをえなかった。
 そこで両親は、笹本家の菩提寺である類家は長流寺住職に御相談申し上げ、16世霊水金龍和尚様の弟子となることとなった。時に天保4年6月21日、名を万吉改め、金龍様の一字を頂戴して、「金英」となったのである。
 以上、穆山様の出生と出家のエピソードを紹介してきたが、冒頭の「なぜ?西有姓としたのか。」については、次号へのお楽しみとし、今日の「さわやか説法」はこれまでとする。「西有穆山展」どうか皆様!!見に来て下さいね。お待ちしてます。

合掌

  ※八戸市美術館 企画展 「西有穆山展 〜郷土が生んだ高僧〜」