和尚さんのさわやか説法182
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 私は大の「日本酒」好きである。
 仲間うちでとか、宴会での開口一番の決まり文句と言えば
「とりあえず、ビール!!」の言葉だ。
「クイーッ」と喉をうるおしては、「プァー」っと歓喜の息を吐く。
 これから夏本番を迎える時期においては、なおさらのことである。
—ところが—
 私は「とりあえず、お酒!!」と言うのだ。
 なぜかって。それは、ビールが苦手だからだ。
 あの独特の「苦味(にがみ)」が苦手(にがて)なのだ。
 ビール党の方々は、口をそろえて必ず、こう私に説教する。
「どうして?」
「こんなにおいしいのに」
「このホップの苦味がいいんだよ」と…。
 そこで私は、こうやって切り返す。
「俺はさぁー。苦いのダメなんだよね」
「ビールやコーヒーとかお茶の苦いのは、もう全然!!」
「それと、奥様の苦味(にがみ)のきいたお叱言(こごと)なんか、特に苦手なのよぉ。」
と、言うと皆は「ワァー」と喜ぶ。
—そうなのである—
 私はビールはもとより、コーヒーもお茶も苦手で、サラーっとした淡い「お酒」と「お水」が好きなのだ。
 酒は酒でも特に好きな「お酒」は、銘柄を問わず、『もっきり』と呼ばれるコップ酒が大の大の大好きなのだ。
—だから私は—
「とりあえず、もっきり」と注文をする。
 すると、おかみさんやら店員さんが、コップを差し出す。
—でも—
 コップだけじゃダメなのだ。そのコップの下に枡(ます)とか小皿の、いわゆる「受け」が置かれていないと『もっきり』にならないのだ。
 そして、直接一升ビンから注ぐのであって決してお銚子なんかでやってはいけないのである。
 おかみさんが、愛想よく「トクットクッ」と、酒を注ぐ音が一升ビンの中で共鳴しながら軽やかな響きをかもしだす。
 私は、その何ともいえない響きを耳にしながら、コップに目を一点に集中させる。
 酒は、コップの表面張力の限界を越えて、ふちを伝わって、下の受け皿に向かって流れ出す。
—すると私は—
「おっとっと」と、心の内から湧き出る歓喜の声をもらし、充足感に満たされるのであった。
 この時、コップからこぼれた酒が、受け皿にも一杯になり、まさにテーブルにこぼれるギリギリの線で止めるのがコツなのだ。
 コップから、ちょっとしかのところで止めようものなら、「なんでェ!!ケチッ」と叫びたくなるのである。
 さぁ!!これからが飲む勝負どころなのだ。
 表面張力でユラユラ揺れるコップを持ち上げるなんてことは、もっきり飲みのド素人。 コップに恐る恐る自分から口をつけにいくのだ。
 この時、「キュー」っと吸い取るが如くの音を立てながら半分ぐらいまで一気に飲むのが、いわゆる「通(つう)」と言われる。
 それから、おもむろに、受け皿にたまった酒を、そのコップに入れ直して、また「クィー」とやる。
 この移し替える時、
「もったいない。もったいない」
との口癖がつい出てしまい、ついでに「酒の一滴は血の一滴」なんでまで言ってしまう。 そのくせ、飲み過ぎた翌朝なんて、痔が痛んで便器を真っ赤にさせてるぐらい大量に流してはいるが…。(恥ずかしい…)

—さて—
 今日の説法の主題は「もったいない」の話であって、私の「もっきり」酒談議ではないのだ。
 今、日本の現代社会においては、この「もったいない」が死語化されてきている。
「もったいない」という言葉が、どこからも耳にすることはなくなってきたし、誰もが言わなくなってしまった。
 私の子ども時代なんかは、もう「もったいない」のオンパレードであった。家庭でも学校でも地域社会にあって、皆は「もったいない」と言っては、食物を、また色々な物を大切にしてきた。
—今—
 日本の「もったいない文化」が日本国から消滅しようとしている。
 現代は飽食の時代、大量消費の時代。そしてそれに伴う環境破壊の時代ともいわれる。 それに警鐘を鳴らす言葉が日本語の「もったいない」であると提唱したのは、2004年ノーベル平和賞を受賞したアフリカ・ケニア国の環境副大臣の「ワンガリ・マータイ」さんであった。
 この「MOTTAINAI(もったいない)」を全世界の共通語として、「MOTTAINAI」文化として浸透させたいとする。

 「もったいない」とは、物の本体を意味する「勿体=物体」のことであり「ない(無い)」と、否定することによって、「物の本体を失う。」ことであるから、物の本質を大切にしようとすることである。
 それ故、転じて神仏等の尊き本体を無くすることは不届きであり、無礼のことを言いあらわし、そのことから過分のことである。畏れ多い、かたじけない。との意味で使われたりもする。
—しかし—
 私達が普段使う「もったない」の意味するところは、「勿体(もったい)」に対する「努力」や「苦労」という「人間的背景」、また「時間」や「歴史」など積み重ねてきた「時間的背景」あるいは、その「場面」「場所」まで、たどり着いたという「空間的背景」を失ってしまう、「無」にしてしまうことへの愛惜の念があるのだ。
—つまり—
「もったいない」とは、表面的には{物質的損失」を惜しむ気持であり、その一方で、先程の人間、時間、空間の背景によって作り出された「心(こころ)」に対する感謝と愛情。そして、それを「無」にしてしまったことへの悲嘆と懺悔の気持が一体となって構築された、日本人独特の精神文化とも言えるものであった。
 ものが溢れている世界には、「もったいない」という概念は存在しないという。日本はもともと資源の少ない島国である。
 だからこそ、貴重な資源をいかに有効に、有意義に使うかといった「制約された環境」の中で、「物を大切にする」「心を大切にする」という精神意識が生み出されたのであろう。

 私は、今の飽食、大量消費の奈落に陥った日本の現代社会を救い出すのは、この「もったいない」文化の再構築であり、その原点に立ち戻ることであると確信する。
 来月は「お盆」の季節である。実は、この「お盆」という仏教行事も、ある側面から捉えると、飽食の時代に警告を与えるものでもあると思慮する。
 それは次号の「お盆特集号」にて!!
 今回の「さわやか説法」は、私の「もっきり飲み」の酒をこぼすと「もったいない」談議から始まった。
 私は、お酒が私の口元まで来るに至った背景に「思い」が込もるからである。
 読者の皆さまには、ここまで読んでいただいて貴重な時間を「もったいない」ことをさせてしまいました。
お詫び申し上げます。

合掌

  ※参照「もったいない」
    マガジンハウス発行