和尚さんのさわやか説法192
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

「お盆」である。特に気温も湿度も高い「暑いお盆」ともなると、いやがおうでも、そのボルテージは上がる。
 それぞれの御寺院や霊園には、お花や御供物を持ち、御先祖様あるいは亡き人を偲び、迎火を焚き、静かに手を合わせる。
 そこには、暑い夏であろうと喧騒の中であろうと、静寂と爽やかな風の中に包まれている古(いにし)えからの「お盆の原風景」があるように思えるのだ。
 それは現代まで培われてきた御先祖様を大切にし、亡き人を敬愛し、心からなる祈りがあるからである。

—さて—
私はこの夏、毎年、長者山新羅神社で開催されている「森のおとぎ会」で芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)原作の『杜子春(とししゅん)』を子ども達の前で実演させていただいた。
 芥川の作品は、読みやすい平易な文章で表現されてはいるがそこには、人間の本質、いや彼自身が自分の心を見つめた上での人としての本質性が描かれており、強いメッセージが込められている。
 だから、『杜子春』を話し、聞いてもらって子ども達に芥川龍之介の伝えたいものを感じ、学び取ってもらいたいと思ってのことであった。
 私は身振り手振り全身で、登場人物になりきって話し始めた。
 小説では短編ではあるが、話すとなると結構、長いのである。
 でも、子ども達はガマンして聞いてくれたのか、物語が面白いのか、それは分からないが、私は話していて、何かしら子ども達が反応してきたのを感じとっていた。
—それは—
 子ども達の反応というだけではなくして、私が、語る私自身に対して、あるいは芥川の杜子春に対して、「何か」を感じはじめていたのである。
 話している時は、その「何か」が分からなかったが、終って壇上から降りた瞬間、ひらめくものがあった。
—それは—
「この物語は、このままで終っていいのだろうか」という感覚だった。和尚という立場で語っている自分が、杜子春に「何か」を言いたがっているのである。
—実は—
その「何か」という私の疑問は「お盆」の意味することでもあるのだ。

『杜子春』の物語は、こうして始まる。
「ある春の日ぐれです。唐(とう)の都、洛陽(らくよう)の西の門の下に、ぼんやり空をあおいでいる一人の若者がありました。
 若者の名は杜子春といって、その日のくらしにもこまるくらい、あわれな身分になっているのです。」
 この物語の登場人物は、この杜子春という若者と、鉄冠子(てっかんし)という仙人である。
 杜子春は門の壁に身をもたせて
「日はくれるし、腹はへるし、今日は泊まるところもない…」
「いっそ川へでも身を投げて死んでしまったほうがましかも」なんて考えていると、一人の老人が目の前に足をとめたのだ。
 老人は杜子春に「お前は何を考えてるのじゃ?」と言葉をかけると、彼は今までの境遇を語った。
「そうか、じゃあ一ついいことを教えてやろう。」
「今、この夕陽の中に立って、お前の影が地にうつったら、その頭にあたるところを夜中に掘ってみるがいい」「きっと、沢山の黄金が埋っているはずだから」
「えっー。本当ですか」 驚いて老人を見上げようとすると、
不思議なことにもう、そこには、あの老人の姿はなかった。

 杜子春は一夜にして洛陽の都でも随一の大金持ちになった。
 本当に黄金が山のように出てきたのだ。
 当然のことながら杜子春のくらしは一変し、贅沢を極めた。
 すると、このうわさを聞いて、親類はもとより、今まで見向きもしなかった連中から、見知らぬ者まで、色々な者達が毎日遊びにやって来ては取り入った。
 しかし、いくら大金持ちでも、湯水の如く使っては際限がある。当然のことながら、三年もすると、スッカラカンの一文無しになってしまった。
 すると人間は薄情なもので、あれほどまでに来ていた親類、友人達は見向きもしなくなり、挨拶一つさえしなくなった。
 行くあてもなく杜子春は、またあの西の門の下で、ぼんやり空をながめていると、昔のように、あの老人がどこからともなく姿を現わして、やはり同じように「お前は何を考えてるのじゃ?」と声をかけた。
「はい、腹はへるし、今夜寝る所もございません」
「そうか、それは可愛想だな。じゃあ、一ついいことを教えてやろう」
「今この夕陽に立って影が地にうつったら、今度は胸のところを掘ってみるがいい」

 杜子春は、また都随一の大金持ちになった。そして贅沢の限りをつくすと、色々な者達がやってきた。すべて昔のとおりなのだ。
 だから、また三年もすると、やはり一文無しになってしまった。
「お前は何を考えているのじゃ?」
 あの老人が西の門の下にたたずむ杜子春に以前と同じように声をかけた。
「では、また夕陽の中に立って、今度は腹のところを掘ってみるがいい」と言うと、杜子春は手を横に振り、
「もう、お金はいらないのです」
「ナニッ、贅沢には飽きたのか」
「いいえ、そうではなく、人間がわからなくなりました。」
「人間は薄情です。大金持ちになった時は、世辞(せじ)も追従(ついしょう)も言うけれど、いったんお金がなくなると、見向きもしません。」「もう、いいのです。」
「そうか、では、これからお前はどうするのじゃ」
 杜子春は、キリッと目を開くと老人にこう言った。
「あなたは仙人でありましょう。どうぞ私に仙術を教えて下さい」
 老人は、しばらく黙って考えていたが、
「いかにも私は、峨眉山(がびざん)に住んでいる鉄冠子(てっかんし)という仙人じゃ」
「それほどまでに仙人になりたいのなら、俺の弟子にしてやろう」
 仙人は、側にある一本の青竹を拾い上げると、杜子春とともに、それに股がり呪文を唱えた。
 なんと、勢いよく大空に舞い上がり峨眉山に向かって一直線に飛んでいったのである。
 その頂上に着くと、仙人はこう言った。
「これからワシは、天上界に行ってくるが、その間に、色々な魔性が現われては、お前をたぶらかそうとする。」「しかし決して口を開くではない!!」
「ひと言でも声を出したら、とうてい仙人にはなれないぞ!!」
 杜子春は、絶対に口をきかないことを堅く決心した。
 すると、岩の上に座っている杜子春にめがけて、次から次へと「お前は何者だぁー」といろいろな魔性が現われてはおどかすのだ。
 杜子春は身を震わせかたくなに口を閉ざした。龍が虎が、大風に大雨が彼を打ちのめす。
 そしたら金の鎧(よろい)を着た神将が現われて、
「返事をせずば、この剣でお前を突きさしてやる」「どうだぁー」
 杜子春は、それでも口をきかなかった。
 すると、その剣は彼の胸に突きささり地獄の底に落ちていった。
 その地獄で……。
 杜子春は、どうなったか?
 この続きは来月号までのお楽しみに…。
「それからの杜子春」に御期待を。
 皆様には、よい「お盆」をお迎えください。

合掌