和尚さんのさわやか説法321
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 先月号の「さわやか説法」で、私は青森刑務所での刑期を満了し、社会へ旅立つ受刑者に対して、私からの更生への「贈る言葉」である「努力すれば 必ず 成長する」の背景を説法してみた。
 それは、犯罪に手を染め服役している多くの被収容者は、自分の人生において
「俺なんか、努力しても報われない!!」
「報われた人生なんて俺には 一つもない」
「努力なんて やったって しょうがない」
とか思っていると感じていたからだ。
 人生の中で、挫折や失敗の中で自暴自棄ともなり犯罪に走った被収容者もいる。

-だからこそ-
 私は、努力すれば、必ず報われるとは限らない。むしろ報われないことの方が、ずうっと多い。
 でも、報われなくても「必ず成長」していることは確かなんだ。
 「その成長している自分自身を自らが確かめることは出来る」とのことを伝えたかったのである。
 その自分が成長しているとの「気づき」が大切であることを私は坐禅教誨の場に来ている被収容者達に伝えたかったことだった。
-つまり-
 「気づき」という自覚である。
 その「成長している自分」に気づくことが、実は努力がすでに「報われている」ことなのだ。
 そのことを言いたかったのである。

-あの時-
教誨が終わっての帰りしな、
「和尚!!長い間、お世話になりました」
「もうムショに戻ることなく頑張って努力します」との彼の言葉に即座に反応し、私の口から突いて出た励ましの言葉が、
「そうか!!まっ当なヤクザさんになれよ」だった。

 実は、この言葉が出る直前、私の脳裡の中で「自問自答」していたことがあった。
-それは-
「真人間になるよう努力するんだぞ」
「真人間になるよう成長するんだぞ」と……、言おうとしている自分に対してだ。
 その言葉を呑み込み、
「えっ?」「真人間?」「真人間って、一体何なんだ?」
との疑問が、私の心の中で叫んでいたのである。
-だからこそ-
 その握手しての私からの突嗟の励ましの言葉が
「真人間」とは言えず、彼が、ヤクザ出身であることから、「まっ当なヤクザさんになれよ!!」となってしまったのであった。

-これまた-
 それこそ、まっ当な言葉ではないし、まともな励ましでもなかった。
 しかし、彼は「うん?」と言いながらも、笑って握手の手にギュッと力を込めて握り返してくれた。

-今月号の-
「さわやか説法」のテーマは、連載している『十牛図』における第3図「見牛」である。
 この「見牛」は、真実の自己を見るとのことだ。
 つまり、真実の自己たる「真人間」のことなのだ。
 実は、先月号の「さわやか説法」は、「見牛」へ導かんとする序章であり前段であった。
 一般的に「真人間」とは、真面目な人、正直な人、まともな人との概念である。
-では-
 不真面目な人、不正直な人、まともに生きようと思っても生きられない人は、人間ではないというのであろうか?
 誰もが「真(まこと)の人間」であるはずだ。
 それは、誰もが「真実なる人間」であり、全ての人々は「人間として存在している真実」そのものである。
 真実ならざるものはない、全ては真実、ありのままの姿であるという見識が、『十牛図』の第3図「見牛」の深意なのだ。

 その「見牛」の「頌」には、こう説示している。

 黄鶯枝上(こうりしじょう)
 一声声(いちせいせい)
 日暖風和(ひあたたかにかぜなごみて)
 岸柳青(がんりゅうあおし)
 只比更(ただこれさらに)
 無回避処(かいひするところなし)
 森森頭角(しんしんたるとうかく)
 画難成(えがけどもなりがたし)

-漢文は難しい💧💧💧-
 では、意訳してみよう…。
 鶯(うぐいす)が木の枝で「ホーホケキョ」と鳴いている。
 春の陽光は暖く、風は穏やかで、岸辺の柳は青々と風の吹くままに、なびいている。
 この自然の姿は、全ては真実そのものである。
 だからこそ、避けることなく、見逃すことなく、その真実に気づくことが、「見る」ということなのだ。
 でなければ、真実の自己に気づくことはない。
 気づかなければあたかも、それは堂々たる立派な牛の角を描こうとしても、描くことは出来ないことなのだ。
 つまり、「見牛」の「見る」とは常に悟りなる真実は見えているはずなのに、「牛」という実体(悟り)を他に求めていては、見えていないとのことを問うているのだ。
 だから、牛の頭角は見えているはずなのに気づかず、見えない者には画くこと成り難しなのだ。「見(けん)」という本質を見る自覚を説いているのであった。

 鎌倉時代、曹洞宗を開かれた道元禅師が詠まれた和歌を集めた「傘松道詠(さんしょうどうえい)」の中に

 峰(みね)の色(いろ)
 渓(たに)の響(ひびき)も
 皆(みな)ながら
 吾(わ)が釈迦牟尼(しゃかむに)の
 声(こえ)と姿(すがた)と

が収められている。
 この歌意は、山々の春は緑に、秋は紅葉となる四季折々の移り変わりも、谷川に響く水の流れや音も、全てはお釈迦様の声とも聞こえ、姿とも見える。
 ここで云うところの「釈迦牟尼」とは、お釈迦様のことだけを示しているのではなく道元禅師においては、「ほとけ」なる真実そのものの道理を説かれているのだ。
-つまり-
 峯の色も、渓のせせらぎの響きも、それはそのままのあり様で悟っている姿であり、「御仏」の姿であって「真実なる自己」が現成(げんじょう)している姿ということなのだ。
 いわば、道元禅師にとっては単なる自然の状景として見えているのではなく、御仏たる悟りの真実として見えているのであった。

-ひるがえって-
『十牛図』第3図の「見牛」の「頌」においての「黄鶯(うぐいす)」の「一声々」。あるいは「日暖風和」も、岸辺の柳の姿もまた、釈迦牟尼の声であり、姿でもある。まさに「御仏」そのものであり、悟りの現成した姿を表わしていることに他ならない。
 そのことの確かな「気づき」が「見牛」で説くところの「見る」という「見識」なのである。

-あの時-
 青森刑務所での受刑者との「お別れシーン」において、私は彼に、「真人間になれよ!!」との「真人間」に引っ掛かったのは、実は、この「真実の自己」たる究明の「十牛図の見識」の教えと重なってしまっていたからである。
-だからこそ-
 こと更に強調しての「真人間」とは言えなかった。
 人間は、誰しも「真実なる自己」という存在であって、「人間としての真実」そのものである。
 あの受刑者は、別れる帰りしな、かえって私に、そのことを気づかせ示してくれたのだ。
 そう、私は思っている。

合掌