和尚さんのさわやか説法338
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
「辞任ドミノ」が止まらない!!
現政権下において、大臣に任命された閣僚辞任が続いており、そのことを端的に表現した報道言語である。
いろいろな疑惑、失言、問題が露呈しては追求される。
最初は「知らない」「覚えていない」「何のことか記憶にも、記録にもない」と、名言なのか、迷言を連発。
隠そうとすればするほど、自らが墓穴を掘り窮地に追い込まれていく。
大臣に任命されたる政治家は、皆さん能力的にも抜きん出ている方々であろう。
―だからこそ―
多くの議員の中から、それこそ抜擢されるのではないか。
ところが、別な能力を発揮しているのか、種々の隠している疑惑、スキャンダルが明るみに曝(さら)け出される。
私は、この一連の様子をTVのニュース番組を見ていて、思わず口を突いて出た言葉が、これだった。
「能ある政治家は ボロを隠す。だよなぁ~」と……。
私の思いついた言葉は、格言である「能ある鷹は爪を隠す」を捩(もじ)り、言い換えてのことだ。
―では一体―
この格言は、どういう意味なのか?
鷹は肉食の鳥であり、獲物を捕まえる為に、嘴(くちばし)は強くて鋭どく曲がり、脚(あし)にはこれまた鋭くて強い大きな鉤爪(かぎつめ)を持っている。
そして、その姿には威厳があり、古来、武士には珍重され、「鷹狩」は権威の象徴でもあったという。
そういう威風堂々たる鷹であるからこそ、鷹自身は「俺はこんなに 素晴らしい爪を持っているんだぞ」と、これ見よがしに、森の動物達に見せたりはしないのである。
普段は、素知らぬふりをして、その爪を隠しているのだ。
しかし、いざという時には、狙った獲物を、その鋭い爪で、一瞬にしてしとめるのであった。
―故に―
この鷹の本性から
「本当に実力や能力のある人は いたずらにそのことを、ひけらかしたり 自分を誇示したりしないものだ」ということの教訓なのである。
―更に―
この格言のキーワード、本質性、主体性は何かというと、それは……。
「能ある」ではないかと私は思った。
この「能ある」とは、単に能力があるとか、実力があるという技量・力量の問題ばかりのことではなく、「心」の能力、自己意識の能力のことを教えているのではないかということである。
そういう「心」の能力があるからこそ、奥ゆかしく、常に控え目であり、へりくだり自慢振ることがないのである。
ところが、この「心の能力」が欠如していると、やたらと自分の力を鼓舞し、ひけらかしたくなるものだ。
そのくせ、失敗や失態、失言にスキャンダルが露呈することとなると、ひけらかすどころか、逆に隠したがるのだ。
先日、遇然というべきか。このような言葉を教えられた。
「人格も能力なり」と…。まさに心の人格なのだ。
お釈迦様の説かれた『法句経』(1)に、こういう一節がある。
意(おもい)は諸法(すべて)にさき立(だ)ち
諸法(すべて)は意(おもい)に成(な)る
意(おもい)こそは諸法(すべて)を統(す)ぶ
けがれたる意(おもい)にて
且(か)つかたり
且(か)つ行(おこな)わば
輓(ひ)くものの跡(あと)を追(お)う
かの車輪(しゃりん)のごとく
くるしみ彼(かれ)に
したがわん
ここで説かれる「意(おもい)」とは、自分の心意識のことだ。
この「心意識」は「諸法」たる全てのことに、先立ち、全ては「心意識」から成り立っているのだ。
心である「意(おもい)」こそ「諸法」たる全てを統括し統治することなのだ。
だから、汚れたる心で語り、行うことは、車輪の轍(わだち)のように跡を残し、苦悩は自分に付いてくるものだ。との教えである。
―まさに―
冒頭に述べた如くの「辞任ドミノ」の閣僚の方々に、しっかりと当てはまっているではないか。
お釈迦様の説示を聞かせてあげたいし、もしかして、知っていたならば決して「辞任ドミノ」の列には入ることもなく、それこそ政治家としての能力を発揮していたに違いない。
―それゆえに―
「心の能力の無い鷹は 爪を隠すことなく、誇示しボロを隠す」のではないか。
だからこそ、お釈迦様は「法句経」の(2)にて、私達に「こうありなさいよ!!」と説かれ導かれる。
意は諸法にさき立ち
諸法は意に成る
意こそは諸法を統ぶ
きよらかなる意にて
且つかたり
且つ行わば
形に影がそうごとく
したがわん
先述した「法句経」(1)の前段の3句までは同じであるが、4句目からは「清らかなる心」にて かつ語り、かつ行うならば やがて、楽しみは後に付いてくる。ちょうど、日に照らされた自分の影のように……。との意味を説かれる。
まさに「心の能力」のあり様を、また人格たる影がそうごとく従ってくるものだと、私達を教え導かれるのであった。
2500年前のお釈迦様の時代も、そうだったのかと、私は妙に納得してしまった。
人間の本質性においては、令和の時代においても何ら変わらないのであり、むしろ巧妙化しているのかもしれない。
だからこそ、お釈迦様の言葉が、グサッと胸に刺さる。
―ひるがえって―
私はこのお釈迦様の説示を噛みしめれば噛みしむるほど、今回の「能ある鷹は爪を隠す」の格言のもっと奥底に隠されているものがあるのではないか?との思いに至った。
清らかなる心の能力、汚れのない心の能力のある有能な実力を持つ「真の鷹」は、爪を隠してはいるが、単に隠しているのではない。
きっと「磨いている」のではないかと……。
―つまり―
格言的に表現するならば
「能ある真の鷹は 隠した爪を磨く」である。
鎌倉時代、曹洞宗を開かれた道元禅師は、『正法眼蔵随聞記』の中で、修行僧達に、こう教示されている。
「玉は琢磨(たくま)によりて器となり、人は錬磨(れんま)にかりて仁となる…(中略)…必ず磨くべし、すべからく錬るべし」と。
琢磨、錬磨によりて玉は光を放ち見事な器となる。人間も磨くことによって仁徳のある立派な人となれる。との教えなのだ。
まさに清らかな布で玉を磨き、清らかなる心で、自己を磨き、人格を磨くのである。
必ず磨くべし、すべからく錬るべしと……。嗚呼…。それなのに それなのに。私、高山和尚なんぞは、汚れた爪を出し、爪ばかりでなく、72年使い古した歯も出し、袈裟の下にはボロを隠して磨きようにも磨けない。磨けば崩れ落ちてしまう。本当にボロボロとである。
まるっこ情けない……。
トッホッホッホ💧💧💧
いろいろなことが沢山あった令和4年も、あと十数日です。
どうぞ、今年1年の汚れを「清らかな布」で「清らかな心」で磨き、来たるべく新しき令和5年が、皆様にとりまして、良き年であることを心より祈念しております。
合掌
※『法句経』友松圓諦著 講談社学術文庫