和尚さんのさわやか説法292
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
—今—
日本国中が南から北まで暑い夏となっている。
私にとっては先日7月19日は、最も「暑い夏」となった。
—それは—
若き青春時代、共に「同じ釜の飯」を食い、共に「同じ寮舎」で枕を並べ、共に「同じ学舎」で語り合った旧友いや、悪友どもが、この「八戸」に参集したからだ。
その悪友どもの巣窟は、駒澤大学「竹友寮(ちくゆうりょう)」と呼称される学生寮だった。
駒澤大学は、仏教系の総合大学であり、その母体は「曹洞宗」である。
それは駒澤大学の前身は「栴檀林(せんだんりん)」という江戸時代の僧侶養成機関として、仏教の研究とりわけ禅学、漢学を研鑽する学林であったことに由来している。
郷土八戸の偉人、明治期の名僧として称賛せられる「西有穆山禅師」も若き時代、その栴檀林で学ばれたという。
駒澤大学は、その栴檀林学林を起源として明治15年に「曹洞宗大学林専門学本校」とし、明治38年に「曹洞宗大学」と改称。
そして大正14年、大学令による大学として「駒澤大学」となって、現在に至っている。
—故に—
北原白秋が作詞された校歌には、この「栴檀林」を高く歌い上げている。
♬ 新人立てり 立てり
竹は波うつ 晴れたり
この空 このわが駒澤
漲(みなぎ)る緑は 光と渦巻く
栴檀林 栴檀林
時代は正(ただ)しく 飛躍し
来れり 捉(とら)へよ輝く
この現実 我等が
校族は雲と起これり♪
「竹友寮」に入寮した新入学生達は、大学の勉強より一番最初に先輩達から指導されたのは、まさに「新人立てり立てり」「栴檀林 栴檀林」の校歌だった。
竹友寮なる学生寮は昔年の栴檀林と性格が同様であり、曹洞宗の僧籍を有する学生であることが入寮条件でもあった。
つまり、入寮生全員が出家得度した僧侶の卵であり、学生寮とは言っても、御本山の僧堂生活を規範とした歴(れっき)とした修行道場であった。
それ故に、竹友寮には、坐禅修行する「坐禅堂」、あるいは法要儀式をする「本堂」があり、そこでは朝の勤行、また坐禅を毎日修行させられるのである。
私がこの「竹友寮」を知ったのは、大学受験の時だった。
—昭和43年2月—
駒澤大学仏教学部を受験する為に、中学三年生の修学旅行以来、2回目の上京だ。
勿論、単独一人で行くのは初めてだった。
花の都は大東京!!
受験に備えて前泊するにしても、どこに宿泊すればよいのかも分からない。
「受験要項」の欄に、地方受験生の為に、その当時近隣の旅館やらホテル等の紹介の中に「竹友寮」なる記載があった。
私は、迷わずその「竹友寮」に〇印をつけた。
夜行列車「急行十和田」号は、闇の中を未知なる東京へと突き進む。
出発前に母親が心配して私にこう言った。
「上野に着いたら、政衛(まさえ)おじちゃんが迎えに来てるから、大丈夫!!」
「おじちゃんに駒沢まで連れて行ってもらうよう頼んでいるから…」
その政衛おじちゃんという方は、母親の兄「中村政衛」氏であり、当時、青森県県議会議員であって、丁度、上京中であるとのこと。
早朝、急行十和田号は上野駅ホームに到着した。
私は降車客でごった返す中で、必死で政衛伯父を目で探した。
長身の伯父貴を目にした時、何かしら安堵感に満ちた。
上野駅から山手線に乗り渋谷駅に向かうと言う。
伯父貴は足早(あしばや)に山手線のホームに向かって、いきおい歩き出した。私はそれに追いつくのがやっとで伯父貴の背中だけ追いかけては足をフル回転させていた。
山手線ホームの階段を上りかけている時だった。電車がスーッと入って来るのが見えた途端、政衛伯父貴はいきなり走った。
私は階段を駆け上がりたくとも、お上り田舎者にカバンとリュックサックだ。
やっとホームに出たのも束の間、目の前の電車のドアがピタンと閉り、駅員がピッピーと笛を鳴らした。
ドアの向こうの伯父貴がガラス越しに口を大きく開けて叫んでるのが聞こえた。
「馬鹿ッ子!!そこで待ってろ!!」
「俺が戻ってくるまでそこから動くな!!」
誰もいなくなったホームで、私は一人、首をうなだれていた。
受験生が上京してきて初めて聞いた言葉が「馬鹿ッ子!!」だった。
—これが まさしく—
私の東京生活の未来を暗示し、予兆だったかも知れない。
トッホッホッホ…(涙)
そんなことの始まりで、渋谷から「玉電」なる路面電車に乗り換えて、駒沢は「竹友寮」なる学生寮にやっと到着した。
伯父貴は、私を玄関先まで送ると、
「ここだな。竹友寮ってのは」
「したら、受験ガンバレよ」と、またもや足早に帰っていった。
竹友寮の玄関では、先輩の方々が温かく迎え入れてくれていた。
しかし、この温かさが次の日、一変するとはつゆ知らずだ。
竹友寮は地方から上京してきた受験生と先輩入寮生とで混雑していた。
受験生らは本堂組と部屋組に分散配置させられる。
私は到着が早かったからか八畳間の部屋だった。次々と受験生が入ってきて、そこに5〜6人が押し込まれた。
皆なは、明日の受験の不安と見ず知らずの同年代との一夜に、まんじりともせず、ギュウギュウとしてお互いに布団に入った。
—早朝のことだ—
突如としてベルが「ビー」と、けたたましく鳴った。すると次にドアをドンドン叩く音がすると共に
「起きろ起きろ」
「もたもたするなぁ」
何かしらんと思い飛び起きると、更に
「廊下に並べェ!!」
受験生らは一様に驚き、ノコノコと廊下に出た。
パジャマ姿もいれば、下着のままの者もいる。
すると、
「バカたれ!!ちゃんと学生服を着て出ろ」
またまた、怒鳴り声だ。
そんなこんで、廊下に一列に並ぶと、先輩の「点呼!!」という怒声が上がった。
「1、2、3、4・・・」
先頭から順々に番号が声早(こえばや)に聞こえてくる。
先輩方の声のボルテージが上がってきた。
「遅い!!遅い!!」
「声が小さい」
途中で番号を間違えたり、つまってしまうと「元(もと)へ!!」
また「1、2、3、4」だ。
また、つっかかると
「バカたれ!!元へだ」
何回も最後まで番号を大きな声で、的確にそれも、つかさず素早く終了するまで、繰り返すのである。
段々と受験生達も慣れてきたというか、ものの事態が飲みこめてきて、やっと「点呼」なるものが終了して、その後、洗面やら食事の指導を受けて、受験会場の駒澤大学本校の机に向かった。
私は、東京に着くやいなや、ガラス越しではあるが、「馬鹿ッ子」と言われ、竹友寮に泊った早朝には「バカたれ」と怒鳴られ、もう受験本番は惨憺たるものだった。
トッホッホッホッ…(涙)
—でも—
何とか通過したのであろう。2月下旬に合格通知が送られてきた。
あの竹友寮での強烈な思い出は忘れてはいなかった。
「おもしろい!!」
私は、入学後の居住地に、ためらわず「竹友寮」と、また〇印で囲んでいた。
合 掌
追伸 悪友どもの巣窟、「竹友寮」での顛末は次号にて…。