和尚さんのさわやか説法221
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今年は7月の梅雨明けから全国各地、猛暑の中の猛暑である。
 北国八戸もまた、近年にない猛暑で、どこにいても、何をしてても暑い。
 そこにまた8月は、暑くて、さらに熱い「お盆」の時節である。
 そう!!お盆がやってきた。
 この時期は、毎年、都会から故郷をめざすUターンラッシュがニュースとして流れる。
 ふるさとの家族と共に、亡き父や母、御先祖様を「あの世」からお迎えし、共に過ごすために……。
—お盆の心—
 「お盆の心」のキーワードは、一体なんであろうか?
 お盆をどういう心で迎えればいいのだろうか?
 それは、「安らぎと喜び、そして慈(いつく)しみの心」であると私は思っている。
 亡き人を、亡き御先祖様を「あの世」からお迎えして、我が家であるいは私たちの側(そば)で、安らいでもらいたい。
 それが私達も一緒に安らぐことでもあり、家族みんなが共に喜びとすることができるからだ。
 その「安らぎと喜び」の根底にあるものは、相手を思いやる「慈しみの心」なのである。
 御先祖様方や亡き人は、私達を「あの世」から優しく見守っていてくれるにちがいない。
 そして私達は、御先祖様や亡き愛する人の「あの世の安らぎ」と成仏を願ってやまない。
 どちらにも共通していることは、先程述べた「慈(いつく)しみの心」から生まれる、相手への「幸せ」なのである。
 その心が一体となり、共に過ごす日々が「お盆の日々」と言えましょう。
—お盆の起源—
 今から2500年前、古代印度(インド)はお釈迦様の時代。十大弟子の一人である目蓮尊者は、なげき悲しみ慟哭(どうこく)の淵(ふち)に立っていた。
 「どうして、お母様は地獄にいるのだろうか?」……。
 目蓮尊者は、お釈迦様の弟子の中でも「神通第一」と称せられた方で、神通の力によって、何でもお見通し、どんな世界をも見通せる神変不可思議(しんぺんふかしぎ)、無礙自在(むげじざい)なる力用が備わっている尊者であった。
 その力用を以てして目蓮様は、亡くなられた愛する母を「あの世」に捜し求め、やっと見つけることができたのだ。
 —なっなんと—愛するお母様は「地獄」にいたのであった。
 目蓮様は慟哭の中から、亡き母を救いたいと願った。この「母を想い」「母を慕い」「母を慈しむ」ところの「母と子の物語」が、『孟蘭盆会』の起源であると伝えられている。
—穆山様と母との物語—
 郷土八戸の名僧「西有穆山禅師」のことは皆様すでに御存知であろう。
 禅師は、幼名を万吉と言われた。実は、のちの穆山様となる万吉少年にも、目蓮尊者と同じく、母を救いたいとの『母と子の物語』があったのだ。
 万吉、9才の時である。母様(ははさま)と一緒に菩提寺参詣の時、ご本堂脇門に掛けてあった「地獄極楽絵図」を仰ぎ見た。
 その時、少年は子を想う「母の心」を、「母の愛」を知ることになる。それは「母様は地獄と極楽、どちらへいくの?」との小さな質問に、「あなたを守るためには、自分は地獄に堕ちようとも」との母の心を聞いたからであった。
—万吉少年の決心—
 「では、母様をそこから救うには、どうすればよいのでしょう!!」
 子の母を想う心だ。すると母は優しく「昔(いにしえ)より一子出家すれば、九族天に通ずと言われておりましてな。一人の子供がお坊様になると両親はもとより親族も極楽に生ずるとのことだよ!!」
 この母の一言が万吉少年の「幼な心」を打ち、そして「万吉の仏心」を呼び覚ましたのであった。
 その時から少年は、「何としてでも母を救いたい」との決意を抱き13才にして出家し、仏の道の第一歩を踏み出さんとした。
 まさに「母を想う」慈しみの心であったのだ。
—目蓮尊者の願い—
 目蓮尊者は「地獄」にいる母を神通の力用で見つけられた。
 しかし、尊者の力用は我が母ばかりを見ていたのではない。他の苦しむ人々も見えていたのだ。
 目蓮尊者の願いは、母だけでなく、全ての苦しむ皆なも救いたかったに違いない。
 そこで尊者は、お釈迦様の教えをいただき、7月15日(旧暦8月15日)に多くの僧侶の功徳と供養の心を尽くされたのである。
 お釈迦様は分かっていたのだ。
 「この供養は、目蓮の母ばかりでない。全てのあの世の人々を救うことなんだよ!!」と。
 私はこう思う。
 この「仏説孟蘭盆経」に登場する尊者は、目蓮尊者でなければならないと。
 それは何故か。数あるお釈迦様の弟子の中でも「神通第一」と称せられる目蓮様でなければ「あの世」を見通せないからである。尊者には、全ての世界が、そして苦しんでいる人々の姿を見通せていたのである。
 だから、お釈迦様の願いを、お釈迦様は目蓮尊者に託されたのではないか。と……。
—全ての人々を救う—
 目蓮尊者も穆山禅師も母を想う心は、母を救いたいとの心は同じである。そしてどちらの母様も、子を想い、愛する心も同じであった。
 「一子出家すれば 九族天に通ず」
 この「九」は単なる数字、単位を表わすものではなく、「全て」という意味である。
 このことは、一人が出家することは「全ての人々」を救うという修行、あるいは生き方にほかならない。
 つまり、お釈迦様も、目蓮尊者も、穆山禅師も、全ての人々を救いたい、全ての人に幸せになってもらいたいとの「心」である。
 その心からすると、その願いは、「あの世」も「この世」も、全てを「極楽」そのものにするということなのであった。
—お盆のひととき—
 お盆の行事は、そのお釈迦様や目蓮尊者そして穆山禅師と同じ心で、同じ心となり、父や母を想い、御先祖の方々を敬い、全ての人々の「あの世」での安らぎを祈ることでありましょう。
 皆さんの菩提寺で、あるいは皆様お一人お一人の御家庭で迎える「お盆のひととき」は、全ての有縁の人も無縁の人も、三界の万里を「極楽」に救わせんとすることなのだ。
 まさに、お盆は亡き人と共に過ごす「安らぎと喜び、そして慈しみ」の「ひととき」と言えるのではないだろうか。
 皆様の今年の暑き「お盆」が「よきお盆」であることを心から願ってやみません。    

合掌