和尚さんのさわやか説法158
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 皆さん!!耳よりな情報を、この「さわやか説法」を読んで下さった方だけにお知らせします。
—今しかない—
—今、行かなければ—
行けなかった人は、必ず後悔します。
 八戸市美術館ではちゃんと公開しているのに、きっとあなたは後悔しますぞ。
—そう—
—それは—
 先月号でも紹介した「郷土が生んだ高僧 西有穆山展」のことである。
 特に第Ⅰ期展示(11月24日まで)は、静岡県焼津市、旭傳院(ぎょくでんいん)秘蔵の「直心浄國(じきしんじょうこく)禅師(西有穆山)画像」—安田靫彦(やすだゆきひこ)画伯筆—が公開されていることである。
 この展示は、今回が最初で最後になるかもしれないということであり、あの凛(りん)とした眼光(がんこう)鋭(するど)き禅師の画像は、まさに、近代日本の高僧中の高僧と慕われ、「眼蔵家(げんぞうか)」としては、「穆山の後に 穆山なし」と称せられるほどの威厳(いげん)と悟(さと)りの境界(きょうかい)に立脚した「御姿(おすがた)」そのものであった。
 私は、会場に入り、その「御姿(おすがた)」を目(ま)の当(あた)りにしたとき、思わず驚嘆の声と、同時に掌(て)を合(あ)わせ、ワナワナと震え、その場から動くことができなかった。
—そしてまた—
 他の展示されている墨跡の数々は、まさに「西有穆山」の心魂(しんこん)と禅魂(ぜんこん)が躍動(やくどう)し、あるいは静止(せいし)している。
—そう—
—ここは—
「穆山World(ワールド)」なのだ。
 私達は、いつのまにか、穆山様に導びかれ穆山の「禅の世界」に没入(ぼつにゅう)させられているのであった。

 元八戸市長、秋山皐二郎(あきやまこうじろう)氏は、この西有穆山禅師の末裔であるという。穆山様は生涯独身であるが故に、穆山様の兄弟の子孫である。
 その秋山氏が以前にこう話された時があった。
「ワシはな、穆山禅師が90才になられた明治43年2月に生まれた子供でな。ワシの皐二郎という名前の名付け親は、禅師様なのじゃ。その年の12月に禅師は亡くなられた。」と、
「そして今、ワシはその名付け親の禅師より長生きをしている」と呵々大笑(かかたいしょう)された。現在、93才のお年である。
 秋山氏は末裔として「西有穆山禅師顕彰会」の会長として「皐(こう)」の名の如く気迫に満ちた矍鑠(かくしゃく)たるものがあり、今回の「墨跡展図録」冒頭の「発刊にあたって」に、こう記述されている。
「『古人(こじん)の跡を求めず、古人(こじん)の求めしものを求めよ』とのことばそのままに、先哲道元(せんてつどうげん)の著(ちょ)「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」のまれなる参究者といわれた穆山禅師は……」と、
 この一文を拝読した時、私は衝撃を受けた。
 この秋山皐二郎氏は老境にあって、もしかすれば、穆山禅師と同じく、その「悟境」に達しているのではないかと…。
—それは—
 穆山禅師ほど、古人たる道元の跡を慕い、求めた人はいなかった。
 その跡を求め、求めれば求めるほど、その究極は「古人の求めしものを求めよ」ということであったのだ。
—さすれば—
 秋山皐二郎氏は顕彰会の会長として、いや元八戸市長として、更には末裔として、八戸市民の皆さんに「古人の跡を求めてもらう」
—つまり—
「八戸の名僧 西有穆山の跡を求めてもらいたかった」のであろう。
—そしてさらには—
「穆山様の求めしものを求めよ」ということではなかったかと感得する。
 だからこそ、旭ヶ丘に「穆山公園」を作り整備し、顕彰し、今回の墨跡展を開催してまで、「穆山の跡」を公開しているのであると私は確信する。

 秋山氏は、穆山様の兄弟、四代笹本勇吉の娘りよ(関川姓)の娘スエ(秋山姓)の子供である。
 その穆山様の父は、笹本長次郎といい、母は、なおであった。
—と、するならば—
 秋山氏は笹本家の末裔となり、当然、穆山禅師自身にあっては、「西有」姓ではなく「笹本」姓ではなかったのか。
 これが私の従来からの疑問であった。
 そこで、私は笹本家の菩提寺である類家「長流寺」様を訪ね、現住職大和宏州師の御案内のもと、そのお墓をお参りさせてもらった。
—なんと—
 そのお墓は、穆山禅師が自らが建立された墓だったのだ。正面には禅師の揮毫(きごう)で「南無観世音菩薩」と書かれ、その両脇に父上母上の御戒名が刻んであり、横の碑文には、「両親のために西国三十三所観音堂下の土を持ち来りて 此地に置く」という内容が記されていたのであった。
 そこで私が着目したのは、横書された墓の家名のところには「笹本家」と刻むことなく「笹本氏」であるということだった。
 現代の墓は、大概が「○○家」であり、「○○氏」とは書かない。
 きっと、それは明治維新の際、今まで武士だけに許されていた姓氏が万民にも使用できるようになり、それが「○○家」という家称ではなく、「○○氏」という姓氏を名のったのではないかと推測される。
 ということは、穆山禅師の生誕した当時、江戸、文政年間は「笹本姓」は無かったということになるのではないか。
 明治期になって、新たに「氏」を起こし、「笹本」となったのだろう。
 現在、禅師の御生家にお住まいの七代「寿一(としかず)」氏の奥様は、こう語ってくれた。
「ここの家から、上(うえ)の山(やま)までは寺坂(てらさか)といってなす。」
「ずい分と坂の上まで笹が重なるほど繁っていたのす。」
「それ本当ですかぁー」
—そこで—
 私は間髪を入れず、「ここから笹やぶの本が始まるから「笹本」で名のったのではないですか」と叫ぶと、奥様は大笑いして「そうだがもしれねえなす」と頷(うなず)いた。
—はたして、これは真実かどうか、それは解からない—
—でも、一つのドラマでもある—

 最後に、では、何故、穆山禅師は「西有(にしあり)」と名のったのだろうか。
その事実を穆山様の高弟「岸澤維安(きしざわいあん)」老師はこう説いている。(正法眼蔵啓迪上巻)
「先師は笹本氏の出であるから笹本氏を名のるべきであるが、御一新のとき僧侶もまた姓氏を用ゆべしの出たとき、あらたに氏を立てて西有というたのである」と述べられ、その根拠は、「仏祖統紀(ぶっそとうき)」(中国・宋時代、1271刊)第36巻に「永平7年帝(みかど)、金人(こんじん)の丈六(じょうろく)ありて項(うなじ)に日光(にっこう)を佩(お)び殿庭(でんてい)に飛行するを夢(ゆめ)みる。朝(あした)に群臣(ぐんしん)に問(と)ふ能(よ)く対(こた)ふるもの莫(な)し、太史(たいし)傳毅(ふき)進んで曰(いわ)く 臣(しん)聞(き)く周昭(しゅうしょう)の時 西方に聖(せいじん)人有りて出(い)づ、其(そ)の名(な)を仏(ほとけ)と曰(い)ふ」
 原漢文のものを私が読みやすく現代調に直訳したものであるが、その意味は解かっていただけるものと思う。
 要するに「西方に聖人有りて、その名を仏と云う」
 この意味を以ってして穆山禅師は「西有(にしあり)」と名のり、晩年には「西有寺(さいゆうじ)」という自らの名の御寺を建立されたのであった。
 さあ皆さん。見なくて後悔しないように、「穆山展」に早(はや)く来(こ)うかい。

合掌

 
 ※次回も「穆山物語」の続きを書く予定です。