和尚さんのさわやか説法309
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

「緊急事態宣言を発出することといたします」
 私は、4月7日に打ち出したこの安倍首相の発言に対して、正直言って妙な違和感を覚えた。
―それは―
 緊急事態宣言に対してではなく「発出する」という言い方、表現にである。
「緊急事態宣言」については、新型コロナウイルスが全国に猛威をふるい拡大化するにしたがって、いついかなる時に決断するのか注目されていた。
―いざ、その時の―
 決断の発表が冒頭の言葉だった。
「発出?」
初めて聞く、言い回しだったからか私はびっくりしたのである。
「発令ではないのか?」事実、翌日の読売新聞の第一面には「緊急事態宣言発令」との大見出しだった。
 なぜ?安倍首相は、発令ではなく、わざわざ「発出」という言葉を用いたのだろうか?
 私は考えざるをえなかった。
 発令だと命令のように強制力を持った宣言と国民に受け取られるのではないか。
 あるいは、令和の時代の今日、「令」という文字に命令とのニュアンスを感じさせない為の配慮なのか。

 この用語、言い回しは、安倍首相がよく使用しているらしい。
 と、すれば官邸での行政用語なのであろうか。
 たぶんに、この用語は「緊急事態宣言」はあくまでも「宣言」であって法令、法律等の施行ではないことから、「発令」ではなく、「発出」であって、国民に広く知らしめ意識喚起をうながすという法的根拠に基づいて「要請」の意味が込められているのであろう。

 更に思ったことは「事業規模総額108兆円の緊急対策を決定しました」との、その数字に対してでもある。
「えっ?108兆円!!」
「除夜の鐘でもあるまいに?」
「この世の終りじゃないぞ!!」
「国民を救済し、コロナを撲滅し、現在とその後の回復促進を考えるなら、もっと出動せよ!!」とTV画面に向かって叫んでいた。
 その後、4月16日には全国に「緊急事態宣言」が発出され、国民一律10万円支給が決定した。

 今回の新型コロナウイルスに関しては、先月号の「さわやか説法」においても「29日目の恐怖」をテーマとして書いてみた。
 そこで言わんとしたことは、危機対応は「予見と初動」にあるとし、「恐怖の認識」を抱くことの重要性を説法してみた。
 まさに世界も日本国も、特に中国が新型コロナ発生時において、恐怖の予見を抱くこともなく、その為に初動の対応を遅らせてしまった。
 その結果、今まさに私達は、その恐怖の真只中にある。
 それは恐怖ばかりではない、悲しみと苦しみ、慟哭の「どん底」に落ち入らせてしまったのだ。

 一通のケータイメールが鳴った。開いてみるやいなや声を失った。そこにはこう記されていた。
「高山さんの親友である東京の〇〇老師がコロナで入院し、4月1日から人工呼吸器をつけ重篤とのことです…。」
 頭が真白になり、ケータイを持つ手がブルブルと震えた。
「ともかく…ともかく…、あいつのお寺に電話しなくては…」
 電話番号検索が思うようにタップできない。
―やっと押した―
 電話の送信音がヤケに耳に響く。
 若い女性が出た。
「はい!!〇〇寺です」
「はっはっ八戸の…高山です…」
「〇〇君がコロナに感染したと聞いたんですが…」
「高山さんですね。私は娘の〇〇です」
「はい。父が先月末にコロナに感染してICUに入り、今コロナと闘っています」
「えー。」
次の言葉が出てこない。
「実は母も兄も感染して、私一人だけが陰性で、お寺を守っています…」
「えっ!!奥さんも、副住職さんもですか…」
「はい、でも母は昨日から熱が下がり落ち着いてきたようです」
「兄は、軽症ですが隔離されています」
「しかし…。父は…」
 お嬢さんの切々たる声に私は打ちのめされ、ただ聞き入るしかなかった。
 電話を切るや私は叫んだ。
「〇〇よぉ!!ガンバレよぉー」
「コロナなんかに負けるんじゃねェぞぉー」
 居ても立ってもいられなかった。
―その時―
 私は電話を切る直前に言った言葉が脳裡によみがえってきた。
「〇〇君の回復を心より祈ってます」と…。

「そうだ!!俺には祈ることしか出来ない!!」
「祈るのだったら、御本尊様に祈りを届けてもらおう!!」
 即座に御衣(ころも)に袈裟(けさ)に着替えて本堂に走った。
 太鼓を準備し、病気平癒、怨敵退散の祈願の一人法要だ。
 私の祈りが届くか、届かないか、それは分からない。
―でも―
 そうせざるをえなかった。胸が、心が無性にうずき高鳴っているからだ。
 大鏧(だいけい)を叩き、太鼓を渾身の力を込めて打ち、打ち、打ち、打ち続けた。御経をあらん限りの声で読みながらも、頭の中には親友の〇〇師がICUで闘っている姿が浮んできた。
「負けるんじゃないぞぉー。〇〇よ!!」
 それと同時に、〇〇師との駒沢大学時代の出会った時の様子が浮んでくるのだ。
「高山!!お前、誕生日いつだ?」
「俺か、昭和25年2月11日だよ」
「えっえー。俺も25年の2月11日だぜ!!」
「ウッソーだぁー」
「じゃあ、俺とおまえは同年同月日(どうねんどうがっぴ)生まれかぁー」
 それが深い友情への始まりだった。
 私も〇〇師も駒大仏教学部に入り、課外活動として「児童教育部」という都内の寺院にての「日曜学園」において、地域の子ども達とのボランティア活動を通して無二の親友となっていた。
 馬が合うというか。心が通じ合うというか。素行は片や超真面目、私は超不真面目。
性格は真逆。
 東京のお寺に生まれ一人っ子で「玉」のように育てられ温厚、穏やかで純真無垢な生粋の「江戸っ子」だった。
 ある時、そんな私達を見て、ある同輩が訊ね聞いた。
「〇〇よ!!お前なんで高山みたいな男と仲良いんだ?」
 そしたら、その言葉を遮るようにして、こう言った。
「こいつ!!バカだからねぇー」
「いつもバカなことしかしないんだけど…」
「俺とこいつは同じ誕生日なんだよ!」
「だから、しょうがねぇーんだぁー」
「ワッハッハ!!」私も〇〇も天真爛漫、互いに肩を組み、心の底から笑った。

 太鼓を打ち鳴らし、御経の声は怒涛の如く読んでいても、〇〇とのいろいろな思い出が走馬灯のように浮かんでは涙が頬を伝う。
―しかし―
 その翌日の朝だった。〇〇のお嬢さんからの電話だった。
「今日早朝に父が亡くなりました…」💧💧💧

 私の腑甲斐無い祈りは〇〇に届かなかった。
 祈るしかない私にはどうすることも出来なかった。
―コロナが憎い―
 その慟哭だけだ。コロナを憎む。コロナをやっつけたい。
「憎い!!憎い!!憎い!!」
「憎っつらい!!」(`へ´)
見えない、どうしようもない相手に怒りと憤りを虚空に向い叫ぶしかなかった。

 私は先月号の「さわやか説法」の結論で、お釈迦様の『法句経』の一節をもじって自説曲説してみた。

医(い)の手にて
病(やまい)の蓮(はす)をたつがごとく
ウイルスの感染をたつべし
かくして
寂静(じゃくじょう)の道を養うべし
この涅槃(しずけさ)は
人々によりて
ときいだされたり

 早くコロナをやっつける治療薬を作って欲しい。ワクチンを作ってぶちのめして欲しい。
 憎きコロナをこの世から抹殺して欲しい。
 今月号の「さわやか説法」は親友を失った悲しみと憤りから「怒り説法」になってしまった。
―しかし―
 それは、読者の皆様に、あらゆる皆様に、同じ悲しみを味わってもらいたくないからである。
 怒りの心を持ってコロナを打倒しなければならない。
 安倍首相よ!!怒りを持って躊躇なく、もっと果敢に、もっと火急に…もっと大胆に…。
―国民の生命と生活を守るべし!!―
 今、私達国民は「自粛」と「苦難」から解放され皆なが笑い集える日を待ち望んでいる。
―かくして―
 日本が、また世界中が寂静にして平穏なる生活の道を養うべく日々を誰もが闘っているのだ。
 コロナが真底、憎っつらい!!………………………………(`へ´)

合掌